鹿島の神が武御名方(タケミナカタ)の神に簡単に勝てた秘密は直心影流にあります

鹿島の神はなぜ武道最高の神なのか。

鹿島と香取は、なぜ古来第一の武の神と仰がれてきたのでしょうか。

鹿島・香取の両神宮は、それぞれにフツの神として、天の力と地の力と分かれた 元々は根源的な宇宙のフォース・エネルギーの神を祀ったところです。

そ の「フツ」という言葉なのですが、それが本当にわかるには古代弥生語p音の言葉の世界の理解がどうしても必要です。

鹿島は 「フツの御魂」といい、香取は「フツヌシ」と言いますが、鹿島のフツと香取のフツは実は同じではないのです。

分かりやすく言えば、鹿島は天から降るエネルギーで、雷や剣によって象徴され、香取は地から湧き上がるエネルギーとして「根裂・磐裂(ねさく・いわさく)の神の子」 とされ、それぞれ対極をなしています。

古代弥生語では、鹿島がPutsu(プツ)、香取がPutu(プツ)となりますが、万物の背後にある目に見えない根源的なエネルギーである古代P音の世界の エネルギーが二極に分かれて対極をなし顕現しているといえばいいでしょう。

鹿島のフツ(putsu)の神を祀る鹿島神宮

根源的なエネルギーである古代P音の世界の エネルギーとは、言い換えますと、宇宙に満ちるフォースエネルギー、ないしゼロポイント・フィールド・エネルギーとかいろんな名で呼ばれていますが、要するに、万物の命を育むエネルギーのことで、実はこのエネルギーは万物の命の中に「奇魂(くしたま)」として宿っています。

古来、神道の世界ではこの事実を「万物に神宿る」と言ってきました。

しかし、これまで、この「万物に神宿る」ということが、どういうことなのか、そしてその内なる神である「ソースエネルギー」をどうしたら自分の中で活用できるのかが、わかりませんでした。
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東国の最果(さいは)てをなぜ「常陸(ひたち)の国」といったか。

とにかく、鹿島・香取の神はそういう宇宙根源エネルギーです。

古来その二つの神は、特に兄弟神とか夫婦神とも言われていますが、そういう表現はしかし一つの比喩(ひゆ)にすぎません。

この宇宙大の根源的エネルギーは、基本的には宇宙に遍満していますが、物理的次元においては、日毎まず東の空からそそがれるところから、その所を常陸(ひたち)の国と言いました。

弥生語でヒタチは「霊垂育(ピタチ」であり、意味は「万物生成の見えないエネルギーの流れ」であり、そのエネルギーが一番早く日本の中で日毎に発するところが常陸国、今の茨城県地方なのです。

ですから、ほかにも常陸国に祀られている主要な神社、例えば常陸二の宮の静(しず)神社と大甕(おおみか)神社も同じようにP音のエネルギーの神々(takepatuti、建葉槌の神)を祀(まつ)っています

そうすると、古代人にとって、日本の国でこの神を祀るべき最適の場所といえば、どしても東路の果てなる鹿島しかないということになるわけです。

そこで、天照大御神の命を受けて、九州の五島列島あたりから大君側近の中津・弓前(ゆま)という祭祀グループがサエキという海兵隊と共に約1600年位前頃に東路の果て、鹿島にやってきたのです。

後の「中臣氏(なかとみし)」の先祖たちです。

その中津の中の族長である中津身(なかつみ)は、飛鳥・奈良にかけて再び大君であった天皇の側近として呼ばれて、鎌足の時から藤原氏となります。

記紀の日本神話では、これはあくまでも擬人化神話ではありますが、このフツの大神は天照大神の命を受けて、オオクニヌシとの融和を図り、日本を天津日嗣(あまつひつぎ)の統治する国とするために活躍した神として描いています。

鹿島の神が、宇宙的規模のエネルギーの神であればこそ、国津神の大国主や建御名方神(たけみなかたのかみ)の力を圧倒する物語となり、そういう神話が出来上がったのです。

そのほんとうの強さのゆえに、鹿島香取は、武道を志す者の神と思われるようになりました。

以来、この二つの鹿島・香取の神を武道場に祀ることは常識となっています。

それは、鹿島の神が「真の武道とは何か」を教え示したからです。

それが古事記の中の「国譲りの神話」に比喩的に示されています。

つまり、鹿島の神が出雲のタケミナカタの神を「萌(も)え出たばかりの葦(あし)をひねるように取って投げ飛ばした」そのなかに、「真の武道とは何か」が示されています。

ちなみに、鹿島・香取の正しい位置の掛け軸は、向かって左が鹿島、向かって右が香取です。両社は剣と鞘<さや>との関係にあるからです。

このことは「委細心得(いさいこころえ)」という弓前文書(ゆまもんじょ)の中の歴史書に記(しる)されています。

というわけで、だからこそ、鹿島神傳直心影流(かしましんでんじきしんかげりゅう)という名があるのです。

鹿島の神が伝えた(神伝)「真の武道」、それが「直心影流」だというわけです。

ところで、この鹿島から起こった鹿島神傳直心影流(かしましんでんじきしんかげりゅう)は

上泉伊勢の神

鹿島の神職であった松本備前守(まつもといぜんのかみ)を流祖としていますが、その2代目の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)から近年では有名な勝海舟の師でもあった男谷精一郎、榊原鍵吉、山田一徳斎などがいます。

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真の武道の強さはどこからくるか?

では、ここで武道の真の強さとは何か、について考えてみましょう。

普通のイメージだと、武道の強さと言うと、筋肉隆々とした強靭な筋肉で大きな体の人の方が有利であり、力もエネルギーも圧倒的に強い大きな男性をイメージしますけれども、それが違うんですね。

宇宙大のニュートラル・エネルギーは世界に遍満していますが、もしそのエネルギーを人が自分の中に取り込むことができると、強靭なプロレスラーに対しても、女性のような、たおやかな力ででも勝つことができる、そういう世界があるんですね。

例えば合気道の達人がそうです。

植芝盛平という有名な方がいますが、あんなきゃしゃな体格で大きな武道家を投げることできるわけないと思いますが、それができるんですね。

映画「沈黙シリーズ」の中で、主人公のスティ―ブン・セガールが強肩強靭なプロレスラーのような大男の手首を軽くつかんでひねって、吹き飛ばすシーンがよく出てきますが、あれが実際に起こるんですね。

その秘密は、要するに宇宙に遍満するエネルギー、言い換えるとゼロポイントフィールドというところにある宇宙大のニュートラル・エネルギーが何らかの方法で人間の肉体の中に取り込むことができると、あいう力が発揮されるんですね

これは体験してみないと理屈ではいくら考えてもよく分かりません。

そこには見えないニュートラルのエネルギーとよばれる不思議なエネルギーが動いているからです。

そのエネルギーは三次元のパワーアップしたプロレスラーのような物理的世界のパワーとは次元を異にしています。

それこそ、鹿島の神が出雲のタケミナカタの神を「萌(も)え出たばかりの葦(あし)をひねるように取って投げ飛ばした」という神話の中で働いた異次元のエネルギーです。

そのエネルギーは物理的世界のパワーとは次元を異にし、まさにいのちのニュートラル・エネルギーそのものなのです。

鹿島の神の武道の奥義は、間違いなく、その「宇宙的フォースエネルギーの次元の世界」のその世界の中あり、そのエネルギーの影向(ようごう、そのエネルギーの来臨)をいかにしたら実現させることができるか、それこそが「鹿島神伝直心影流」の極意あり、鹿島の神が教えた「真の武道」です。

その鹿島の神のエネルギーは、まさに不思議としか言いようのないエネルギーなのであり、それが、いのちそのものが持つエネルギーであり、鹿島の神が、一方で武道の神であって、同時に春に生き物の生育や発育を促す春の神であり安産の神と言われ続けてきたゆえんなのです。

かくいう私もこの「戦わずして勝つ」武道の極意の世界がをほんとうあるんだということが分かったのもつい最近のことです。

不思議なことに、まことに不思議なことなのですが、武道における真の力と命を育むエネルギーとは、実は同じものであったようです。

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柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)の直心影流の動き

剣の道といえば、 NHK の「宮本武蔵」というドラマにこんな場面がありました。

ある日のこと、武蔵は、当時有名な柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)を訪ね立会いを求めます。

木刀を持つ武蔵に対し、石舟斎は手に何も持たない、いわゆる無刀取り(むとうどり)の構えをします。

緊張の極みにある武蔵と心身ともにゆったりと構える石舟斎。

実に対照的です。

柳生石舟斎

その行き詰まる末に、たまりかねた武蔵が打ち込んで行きます。

すると、石舟斎は軽くかわし、あっという間に武蔵の腕を掴んだかと思うと投げ飛ばしています。

明らかに武蔵の負けです。

その時石舟斎はこんなことを言います。

「最前よりいい声で鳥が鳴いとったなあ。いい声やった。聞こえたか、武蔵」

石舟斎の構えが、どういう構えであったかはわかりませんが、

宮本武蔵

これは私見にすぎませんが、おそらく石舟斎は、五感を澄まし周囲の環境と一つに溶けて無心の赤子のような「直心(じきしん)」の世界に入り、「どう動けばよいかの最高の動きを得て」直心の「いのちの中のフォース・エネルギー」の影が石舟斎の神技(かみわざ)となった、ということなのだろうと思います。

今回はこのくらいで。

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