武道の教えとはすなわち人生の教えであるー示現流(じげん流)と鹿島神傳直心影流の教えー 

      武道の教えとはすなわち人生の教えであ

     ー示現流(じげん流)と鹿島神伝直心影流(じきしんかげりゅう)の教えー 

先日、鹿島神宮で奉納演武(ほうのうえんぶ)をされました鹿児島の示現流と鹿島神傳直心影流(じきしんかげりゅう)の皆さんの会合がありましたので、そこで少しだけ申し上げたお話を今回このブログで改めて綴ってみたいと思います。

それぞれの流派名には必ずそこに託された強い思いが込められているというお話です。
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「示現(じげん)」とはどんな意味?

示現流ですが、まずは「示現」という言葉を考えてみたいと思います。

示現を辞書で調べてみると

1、神仏が不思議な霊験(れいけん、御利益)を表すこと

2、もう一つは仏教用語として仏や菩薩が衆生救済のために色々な姿を変えてこの世に現れること

示現流

 以上のような二通りの意味があるようです。

剣道という武道においては1、2のうちでは、2ではなく1の意味になると思います。

2の場合のように、剣道で衆生を救済するわけではないからです。

そもそも「示」という「しめすへん」の字は、元来、「神」を表す言葉です。

神という言葉自体が示(しめす)へんと申の 字 から成り立っているように、示という字は元来が神事に関わる言葉が多いのです。

神、 社、祈、祓、榊、祷、祖、祀、祐、祠、禮、祇、祝、 崇、祭、祥、 禁、禍 、福、禅、禰、祷、

少し調べたままに あげた神事に関する漢字です。

また、示は日、月、星によって代表される「天」の意味を持ち ます。

この場合、例えば社や禮や神や禅や祀、祈、祐、福、禰のように、 示へんの「天」に対し、土、 豊、申、単、巳、斤、右、爾などはすべて「地」の意味を持っていて、合わせて「天地」の意味を成すのです。

そうすると、示現流とは「神ないし天地のうちの<天>を現わす」流派という意味を表しています。

言い換えると「神業(かみわざ)を出すことを目標とする流派だ」ということがわかります。
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「直心影流」とはどんな意味?

一方「鹿島神傳直心影流」という流派名も、さすが神伝だけあってとても素晴らしい名が付けられていると思います。 

「直心の影 がさす」 という意味は、そのまま示現流の目指すところと全く同じだということがわかります。

直心 とは一般に「赤子ないし子供の心」を意味するようですけれども、これも神の心という意味にもなります。

無邪気、無心、あまり自我のない心、という点では神の心に近いからです。

さらに申しますと「直心」の「直」とは、実は「直霊(なおひ)」のことであり、それは「神の分霊」という意味が込められていると思います。

直霊(なおひ)とは、別名「奇御魂(くしみたま)」 とも言い、実は両者は全く同じ存在なのです。

ところがここに「一霊四魂((いちれいしこん)」という説が誤って天下に流布しています。

どう間違っているか、ということを一言述べておきたいと思います。

「一霊四魂(いちれいしこん)」の真実

流布説とは次のとうりです。

まず、直霊(なおひ)という一霊があって、四魂、すなわち奇魂(くしたま)、幸魂(さちたま)、和魂(にぎたま)、荒魂(あらたま)を統率するとし、あたかも五つの霊体があるかのごとき説明をしている説です。

本田親徳(ほんだちかあつ)や出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)などの「古神道」を自称する人々が勝手に立てた説のようです。

正しくは、「一霊すなわち四魂」ということだったのです。

この唯一の 出典 とも言うべき「弓前文書(ゆまもんじょ)」の「神文(かみふみ)」の中に直霊(なおひ)と奇魂(くしたま)が全く同じものの二つの働き という正しい記述がなされているからです。

さて本題に戻ります。

以上で、どうやら言葉上の両流派の意味がはっきりと分かりましたが、しかし問題はこれから先です。

示現流においては、いかにして武道の上で「示」が表す神技(かみわざ)を表すことができるか、ということです。

直心影流においては、いかにして「直心」という神の心を影向(ようごう、神の降臨)させることができるか、という問題です。
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「よく」や「みえ」を越えた「こころの世界」とは?

それには、やはり、すべては「心の在り方」にかかっています。

人は大人になるにつれて、肉体上は成長するが同時に心の世界では自我の発達によって「よく」と「みえ」にとらわれてしまうのが普通です。

「あいつだけには負けたくない」とか「己に勝つよりはあいつに勝ちたい」等々と、 「よく」と「みえ」とに向かい、 「示現」 や「直心影」 とは真逆の方向に進んで行こうとします。

さて「こころ」にはカタチがありません。

カタチがないということは、「こころ」とは、本質的には、カタチのある「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の世界には属していない、という意味でもあります。

ただし、肉体に属する「こころ」である「荒魂のこころ」は違います。

カタチある世界とは、はじめがあって終わりがある、そういう世界です。

生まれたものは必ず消滅するのです。

生まれたものは、例外なく必ず死にます。

有名な般若心経でいう「色(しき)の世界」 です。

一方「こころ」にカタチがないということは、実は「生まれることもなく従ってし死ぬこともない」世界に属しているということです。

「こころ」 とは、「色」に属する「こころ」の「荒魂(あらたま)」の次元ではそうではありませんが、その本質は、 無限であり永遠である「空の世界」に属しているのです。

いわば前者が相対的な世界であるのに対して、「こころ」は、その本質では、これを生んだ空という絶対界の世界に属しています。

だから「こころ」は相対的な世界に基づく 「よく」や「みえ」の世界を超えた世界が開けているのです。

「よく」と「みえ」の世界を超えた「こころ」に分け行って入っていくと、なんと、そこには「全てが一つの世界」という絶対界が控えて待っています。

それは「私はあなた、あなたは私」のワンネスの絶対の実在界です。

ですから、一つになっている、その世界に悟入した武道では、示現流の「示」の世界、直心影流の「直心」の世界です。

塚原卜伝が会得したと言われている「一の太刀」の世界も、恐らくこの世界だったと思います。

なにはともあれ、 「よく」や「みえ」を越えた「自他一体の世界」をめざして、初めて「示現」や「直心影」の世界に入ることができるようです。

難しいといえば難しいけれども、たしかなことは、とにかく「よく」と「みえ」の世界を超えない限り、 相対世界の 次元での優劣と勝ち負けの修羅の世界(しゅらのせかい、争いの世界)を越えることは決してできません。

そこに留まっている限り、到底「戦わずして勝つ」というような世界には悟入することなどできません。

真の世界平和はこの心を越えた所にしかありません。

武道の教えとはすなわち人生万般(あらゆる方面)の教えでもあるのです。

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