嫌なことを忘れる画期的な方法 1

スポンサーリンク

前回は、祈りを完了させる上での「忘れる」重要性を話しました。

今回の「忘れる」は「嫌なことを忘れる」方の「忘れる」です。

これが簡単に出来たらいいですよね。

でも嫌なことは、程度にもよりますが、いいことに比べてもなかなか忘れたいのに忘れられないものです。

どうしてなんでしょうか。

マイナスマインドにいつまでもかかわっているのは、それ自体、不愉快だし、だけでなく「現実は想念の結果で思考は現実化する」という観点からしてもよろしくないということで、一刻も早く「嫌なことは忘れたい」わけです。

しかし嫌なことには、否応なく、多くは対人関係のある学校や仕事先や家族内でも、およそ人のいるところには、一日だけでも何度か遭遇すると思います。

生きているだけで嫌な、従って苦しいことは、その程度の差こそあれ、毎日のように誰にでも起こると思います。

なので、生きるっていうのは、大変なことですよね。

かつて、お釈迦様は人生上の苦しみ、まあ嫌なことですよね、それにはまず生老病死(しょうろうびょうし)の四つの苦しみがあると言われましたが、老病死はよくわかりますが、生が何故苦しみなのかは、こうした嫌なことを経験する日常というもの考えるとよくわかるような気がします。

学校、仕事、そして老後と、「人の一生は重荷という厄介で嫌なことを背負うて遠い道を行くがごとし」なのです。

スポンサーリンク

さらに四つの苦しみを、お釈迦さんは言います。

最初は「愛別離苦(あいべつりく)」、愛する人とは必ず死を境に別れる、そういう苦しみ。

「会うは別れの始め」なのです。

次に「怨憎会苦(おんぞうえく)」、恨み憎む人と同じ場所で共に生きねばならない苦しみです。学校であれ、職場であれ、そこには、必ず、ウマが合わないとか、価値観や好みの違いなどから、どうしても一緒にはいたくない人がいるものです。しかし、運命はそういう組み合わせを誰に対してもするのです。

そしてつぎの苦しみは、求不得苦(ぐふとくく)です。

人生、思うようになっているのですが、願うようにはなってはいない人が99.99%です。人は、どうやら潜在意識を含めての話ですが、その人が常日頃思っている、考えている通りにその人に現実化しているということ、しかし、その人が望むようにはなっていない、ということです。

だから、苦しいのです。

最後は、五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊とは、色受想行識の五つのことで、人の肉体と心のことです。その肉体と心の働きが盛んであるということです。

では何故、肉体と心が旺盛であると苦しいかと言いますと、心身は、そのままでは、煩悩(ぼんのう)の自我の塊と言ってもよいものなので、盛んであればあるほど、心静かで安穏ではいられないからです。真に心の平和は得られないからです。

以上の四苦と先の四苦をあわせて「四苦八苦する」などといいますよね。

以上の生きる上での四苦八苦は、だから、嫌なことの代表的なものとなるでしょう。

したがって、生きるということは、そういう意味では、死ぬまで「嫌なこと」の連続といっても過言ではありません。

しかも、そうした「嫌なことの記憶」というものは、確かに簡単には忘れにくいことがままあります。

おそらくその嫌な記憶が強ければ強いほど、人によってはトラウマと呼ばれるようなものとなって残り、これがさらに進行すれば「うつ」とか果てはPTSD(心的外傷ストレス障害)のような病気にまで進展するのでしょう。

スポンサーリンク

では、何故人間だけが嫌なことにこだわり苦しむようになっているのでしょうか。

だって、犬でも猫でも生老病死があることには変わりがないのに、そのことで人間のようにくよくよしたり悩んだりしている様子はありません。

そうなんです。

動物には、反応はしますが 、考えて認識とか識別する能力はないのです。

これを、実は、般若心経では<受・想・行・識>の中の<識>と言っています。

では、あらためて、識とは何なのでしょうか。

次の例で説明します。

たとえば、一匹のネズミが人間の住む台所にやってきて、あちこちに置いてある団子を見つけた、とします。

「ああ、おいしそうな、いい匂いがするものがあるな」と感受する。

これが般若心経の言う<受>です。

しかも、あちこちに置いてある。

おいしそうだ!

たまらず食べたいと思う。

これが<想>です。

そしてその一つを食べたとします。

これが行動の<行>です。

ところが、可哀そうに、まもなくして、ネズミは倒れ、足をバタバタさせて死んでしまいます。

それは、おいしそうでも、毒入り団子だったからです。

動物はこのように<受・想・行>までしか持っていません。

考えて識別する<識>はないのです。

そして、植物は<受・想>までしかありません。

植物は歩いたり行動できないですからね。

ついでに、鉱物は<受>だけです。

鉱物も「反応」はします。

ですから、<受>を持っている鉱物は、その意味では、ある意味、心を持っています。

しかし、生きとし生けるもののなかで、人間だけが、<受・想・行>だけでなく<識>という心を大脳に持っています。

考え、識別する知性を持っているのです。

「まてよ、これはネズミ取りの毒入り団子ではないか、だからあちこちに置いてあるのではないのか」と識別し、だから「食べない」という選択をする知恵が発達しています。

スポンサーリンク

この識があればこそ、人類は火を使い、田に水を引いて米を作り、自然をそのまま享受するだけでなく、これを変えることもして文明、文化を作り上げては、万物の上に君臨してきました。

しかし、この識は、実は、両刃の剣という厄介なものです。

識、すなわち、知性はよい方向、よい目的に使われれば、便利なよりよい生活をもたらします。

しかし、人間は、愚かにも、その反対にもこの識を使ってしまうのです。

自我に発する不平、不満、恨み、憎しみ、怒り、妬みのマイナスの感情にもその識は使われて、復讐の連鎖や破壊や犯罪、戦争をします。

その意味では、理性(知性)=識は、狂気や混乱をもたらす人類の苦悩の源ともいえます。

世界中に起こっている事件は皆これです。

また、人間だけが自殺をします。

そして、ほとんどの病気が、この<識>あるがゆえのマイナスの感情によって引き起こされていることがだんだん明らかになっています。

心のストレスと無関係な病気などほとんどないことが、今では分かっているのです。

また、人間は開発、開拓と称して自然を変え破壊します。

識は人間の自我の成長に伴なって厄介なものになってきます。

長くなりましたので、今回は、ここまでにします。

次回は、この「識」について考え、この識を越える道によって心をニュートラルにして「嫌なことを忘れる方法」を共有しましょう。

ご期待ください。

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク