内在の神に目覚める最短の方法 自観法の極意2

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自観法では「何の審判(さばき)も批判もしない」で、ただ観る

前回、「一切の批判や判断を加えずに」あなたが、そういう神仏の眼で見るようにして自観法をしていくと、やがて、あなたはその内なる神仏とつながり、神の国とつながっていくことを申し上げました。

この「一切の批判や判断を加えずに」というところが、そういう心が、実はとても大切です。

瞑想としての自観法のやり方ですが、居ずまいを正して正座するとか、背筋を伸ばすとか、雑念を思い浮かべないようにするとか、無念無想になるだとか、そういった従来の瞑想法から連想するような一切の作法は無用です。

それどころか、その雑念や不謹慎なこと、いやらしいこと、邪念でもなんでも一切制限を加えることなく、浮かんでは消え、消えては浮かんで来る一切の意識の流れを、ただじっともう一つの自分で観ることです。

寝転んでやってもよい。

ただし、「何の審判(さばき)も批判もしない」で、ただ観る。

も一度、申し上げます。

「何の審判(さばき)も批判もしない」で、ただ観る、この心があなたをこの宇宙のサムシング・グレイトと繋(つな)いでくれます。

しかし、まあ、ある程度キチンとしたほうが、かえってやりやすいです。

まあそれほど自由だということです。

そして、このように観ているのは、実は、心の奥にある肉体に対する霊、自我に対する真我、邪心に対して良心といった神のような存在の眼なのです。

なので、この自観法を進めていくと、その内なる神の眼にやがて重なり同調し、果ては、一つになっていくのです。

そして、いつの日かに、「観る目の霊(真我)」が、今までエゴの塊として威張っていた自我が後退してゆき、霊である真我が主導して、人は”生まれ変わっていく”ということになるのではないでしょうか。

これがほんとうの”生まれかわり”であって、これは、いわゆる輪廻転生のそれとは世界が違います。

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「人は新たに生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできない」

これはイエス・キリストの言葉です。

そこまでいったら、いわゆる”覚者(悟りをひらき生まれかわったもの)”で、このことを仏教では”即身成仏”とも言います。

神道では”生き神”といい、幕末の黒住宗忠公はその有名な例です。その宗忠公のすごさは、明治天皇の父君である孝明天皇がご自分の勅願所とされたほどの、神のような眞正の自覚に到達された方です。

これも、、自観法を極めればこうなるだろうという私の勝手な推論にすぎませんが、わたしは、現時点ではそのはずだ、と個人的には信じています。

ひそかに私が思うに、自我を生きやがて”生まれ変わり”で真我に生きるために人はこの世に生まれてきたのであって、人は誰でもこの道にいつかは何千回か、何万年かの長い長い輪廻転生の中でいつか気づいて神と呼ばれる”ほんとうの自分”に帰っていくのだ、と思っています。

これが「人は神から生まれて神に帰る」という言葉のほんとうの意味であり真実だと思っています。

どんな極悪人でもです。

「善人なおもて往生を遂(と)ぐ。いわんや悪人においておや」

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人は誰でも同行(どうぎょう)二人

自我は真我(神)と共にこの世のすべてを、あらゆる喜びと悲しみを観、味わい、知り、楽しんでいるようです。

とにかく、まずは自分の意識の流れをもう一つの自分で観ていく。

すると、自分の中に溜まっている汚れた感情が清まって癒されて行くのです。

どうしてか。

それは、自観法によって真我と自我が区別されていくからです。

では、詳しくは次回、またこのブログでお会いします。

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