この座禅をするとあなたの悩みは激減する 自観法の極意4

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坐禅の坐の意味

前回、自観法が様々な心の欠陥や病気をも治してしまうのは、自観法で”観る自分”の中には、”いのち”が持つ自然治癒力があるからではないかと言いました。

このことについて少し考えてみます。

要するに、自観法では、二つの自分、真我と自我という二つの人格のような人間の構造を考えています。

誰でもそうなっています。

坐禅という瞑想法があります。

皆さんは、この特に「坐」という文字の成り立ちについて考えてみたことがありますか?

坐という文字は人と人とが土の上に座っていることを表しています。

単に座っているだけではなくこの両者が対峙して向き合い,一方が一方を見ている、ということを表しているのです。

これが坐禅という瞑想法です。

曹洞宗や臨済宗では何をもって座禅というのか、又座禅の仕方がどういうものなのかはよく知りませんが、これから述べる坐と坐禅は私自己流のモノです。

私の言う坐禅では、自我を無念や無我にしようなどというようなことは一切しません。

また「平常心是道」或いは「神想観」といった理想郷を掲げてひたすら想念したり、「只管打座(しかんだざ)」して空しく時の過行くままに座るなどということもしません。

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真我と自我とは、霊と肉体我のことである

さて真我と自我ですが、前者は霊(神仏)、「万物に神宿る」という時の神で、後者は肉体我の自我のことで日ごろ我々におなじみの自分です。

その自分とは、生活の為に毎日汗水たらして働き、家族や子供の為に心を悩ませたり、あるいは恋愛や生殖(セックス)に夢中になっています。

しかし、もう一方の神宿る真我としての自分は、肉体我の意識の中に埋没して無意識化しているのが現状です。

なので、この自分に少しでも気が付いている人はむしろ稀かもしれません。

これに気づき、この無意識を意識化出来たらとんでもない奇跡が起こるとも知らずに、多くの人は肉体我の意識の中でだけに生きています。

そしてそれゆえに、この世は苦しいものになります。

まさに四苦八苦の世界に住んでいます。

何故かと言えば、このブログの中の「嫌なことを忘れる画期的な方法」で述べましたように、肉体我の意識の中でだけに生きていくということは、仏教で言う「四苦八苦」の中で生きていかなければならないからです。

これを「肉主霊従」の生活といいます。

この反対が「霊主肉従」という言葉です。

しかし、これは言葉としてあるだけで、このような生活をしてる人は、実際には、まずいないと思います。いたらその人は悟った人であり、解脱した人あり、ほんとうの自分がほんとうに分かった人だと思います。

オーム真理教とかいう、そこの教祖がよく口にしていた言葉が「解脱」という言葉ですが、解脱している人が、いかなる理由であっても、人殺しのポアなど命ずるはずがあり得ません。

殺す相手も自分になるのに、していることは自我の固まりの行為ですから、そこには解脱も悟りもありません。

第一に、彼には、悟り、解脱したひとの証(あかし)である「如意自在の生活」が出来ていない。

出来ていないから、全く唯物的手法でしか、つまり犯罪でしか、世の中を変えることが出来ないのです。

いいように変わるわけがありません。

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悟り・解脱とは?

悟り解脱をした人とは、自分の中で「In tune with The Infinite(霊、すなわち無限の智慧・生命・慈眼と一つにつながった)」人のことですから、「無限」とつながって、如意自在の生活をしているはずなのです。

悟り解脱をした人とは、霊によりて生まれ変わった人のことです。

イエス・キリストが言ったように、「肉より生まれたものは肉なり、霊によりて生まれたものは霊なり」なのです。

そして「霊によりて生まれた生き方を」「霊主肉従」といいます。

もし、そうなれたら、どうやら「すべてが上手くいっている世界」とつながるようです。

少し話が難しくなってきましたので、次回にしましょう。

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