武道の流派にも表現されている真我と自我、自観法の極意 6

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天下布武の武と武道とは何か?

まず、「武」とはなにか?

「武」とは、戈(ほこ)+止(とめること)、つまり「戈を収める、戈で争うことをやめる、ないし止めさせる」という意味に解釈されるのが普通です。

なので、織田信長が唱えた「天下布武(てんかふぶ)」とは、戈で相争う世の中を無くして、万民が平和に暮らせる世の中を作ろうとした、そのための天下人となるために暴虐な手段をも使ったという評価をする人もいます。

でも、戈を止めるのに戈をもってするのでは、やはり、現代のアメリカとイラク、アメリカと北朝鮮との関係のように、「軍隊をもって軍隊を制する」やり方となんら変わりはないですね。

これで、世界に恒久的な平和が来るかは、大いに疑問です。

さて、ここで、もう一つの「武」という漢字の解釈を考えてみたいと思います。

この解釈は誰も言ってはいないはずで、どんな文献にも無いはずです。

というのも、このことに関しては、どこかに書いてある記事を受け売りしたわけではないからです。

では、どんな解釈だというのか。

たしかに、武という文字は、止+戈 から成り立っています。

止は、止まっているようにみえて現れてこないもの・不動のもの・永遠なもの・不可視なもの・霊・無・空・天・女性原理

戈は、現れているもの・動くもの・変化するもの・見えるもの・肉体・物質・地・男性原理

という関係から、それぞれ、止は、これまで自観法で見てきた真我に当たり、戈は自我に当たると、わたしは解釈します。

よって、「止」とは、言ってみれば、神仏のことであり、この「止」が影向(ようごう、神仏が顕現)して「戈」に納められた状態こそが「武」という文字の本来の意味だ、と解釈します。

だからこそ、「直心(神仏の心が)が影(影向する、顕現する)」、すなわち「直心影流(じきしんかげりゅう)」という流派があるわけじゃないですか。

「鹿島神伝直心影流」と言われるゆえんです。

それが「武道の理想」だからです。

武道が究極としてめざすところだからです。

よって、「直心」すなわち、神の心にならなければ、直心影流を極めたことにはならない、ということになります。

だって、神の心に成れなければ、神の心と繋がらなければ、影向、すなはち、神の技は出てこないのです。

それが「直心影流」の極意だからです。

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武道の流派にも表現されている真我と自我

世に残っている古武道の流派の名称を見てみると、やはり、思ったとうり、皆「武の理想」を伝える命名をしていることがわかります。

西郷隆盛の側近、桐野利秋(きりのとしあき)の示現流(じげんりゅう)

示とは、示す編で「日・月・星の天ないし神」の意味。それを「現」は表わす、そのための流派ですから「直心影流」と全くおなじ意味になります。

桂小五郎が門人であった神道無念流

無とは、無心、無我と言うように、実は人格の臭みを取り払った「神」の意味なのです。

これが本当の神です。「神は愛」といって人格のように思いますが、「神の愛」は、見返りを求めない「無償の愛」ですから人格ではなく、神格です、念のため。

人格とは、直言すれば、真我というより自我に属しています。

だから、純真、誠実さ(これは真我から来ます)もありますが、おおむねうぬぼれ、高慢、ねたみ、怒り、憎しみ、好き嫌い、恨みなどで彩られているエゴが自我の実情です。

聖書、特に旧約聖書やいわゆる記紀などの神話は、この人格化による臭みの為に、真の神は大いに誤解されて伝わっています。

それはともかく、念とは人の心のことですから、結局は、神道無念流も直心影流や示現流とおなじ理念と言ってよいと思います。

柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)や柳生一派で有名な柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)

問題は、新が神の意味を持つか、ということだと思いますが、永遠に新しいものは”いのち”(それは肉体にあらず、物質にあらず、それらは影なれば)である、という考えからすると、それはやはり神です。

なので、「新たに」とは、初心に帰って、ということで、初心の大本は「神の心」ですから、新=神で正解だと思います。

陰(かげ)は影の世、影の身のことですから、「新陰流」も同じ意味内容を持っていることになります。

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鹿島神宮の社家出身である鹿島新当流の開祖、塚原卜伝で知られる鹿島新当流の一(いち)の太刀

一の太刀については、秘伝奥義とされて本当に知る人はどうもいないようです。

これまでの真我vs自我の図式から私だけの私見を申し上げてみます。

卜伝は若い時から剣の道に励み、修行の為に何度か諸国を巡っています。

また鹿島神宮神職、松本備前守のススメによって、卜伝は1000日の参籠を鹿島神宮で行っています。

もっとも、1000日の参籠とはいっても、1000日間、毎日神宮にこもっていたというわけではないようで、合計1000日通ったということです。

とにかくそこで松本備前守の創案になる「一の太刀」の奥義を得た、といいます。

そして、それまで立ち合いで何にもの人を殺めた殺人剣から、人も自分も共に生かす活人剣を、ついに体得したと言われています。

ということは、誰かのブログに

一の太刀とは、現実的に目の前で行われる動きそのものというよりは神がかり的に高い「実力」そのもののことではないか

とありましたが、わたしも、なるほど、その通りであろう、と思っています。

しかし、「神がかり的に高い実力」だけでは分かりずらいと思いますので、私見を述べてみます。

一の太刀とは、「一つの世界の太刀の動き」のことだ、と思います。

では、「一つの世界」とは何か?

それはこれまで縷々(るる)述べてきた真我vs自我の図式の内の「真我の世界」のことです。

真言宗の開祖、空海はこの真我の世界の自分を「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身という」と表現しています。

全宇宙の見えない網の目で果てしなく広がって繋がっているその中の自分、ということです。

その「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なる世界」こそが「一つの世界」です。

そことつながった自覚を得たら、そこは、悟り解脱(げだつ)の世界です。

それは「あなたはあなた、私は私」の肉主霊従の世界から「あなたは私、私はあなた」の霊主肉従の「私が無い」世界の「一つの世界」です。

「一つの世界」には、”私が無い”ので、”敵がいない無敵の世界”が現出してきます。

また、卜伝の「心を新たにしてことに当たれ」とは、「常に新たな永遠の心、神の真我の心に入って事に当たれ、さすれば全てはうまくゆく」ということなのかもしれません。

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