人は神の構造とそっくり-「I am that I am(私は在りて在るもの)」2

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その神の構造とは何か

前回、人間もまた、あなたも私も、「I am that I am(私は在りてあるもの)」という神の存在の構造をしている、ということ。

だから、どんな人でも、神の子と言われるのです、と申し上げました。

やはり、旧約聖書の「創世記」に、そのことについて「神が人を<神の似姿(にすがた)>として創造した」と書かれています。

人を神そっくりの構造に創造した、というのです。

その件(くだり)を引用してみます。

出典:天地創造

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

とある通りです。

それは、あなたも私も、「I am that I am(私は在りてあるもの)」という神の存在の構造をしている、ということを言っているのです。

すなわち、

  I      am     that      I      am

まず第一には、
1、この表現は全知にして全能である宇宙の創造者を一言で表現するのに最も適切なフレーズだということです、と申し上げました。

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その二つの「私」とはなにか

ここには、まず、二つの「I」があることが分かります。

説明の都合上、前者の「I」を仮に「aI」と呼び、後者の「I」を「bI」と呼びます。

ここの「1、の方」では、「aI」の方が「全知全能の神」を表し、「bI」の方が、「人間を含む万物の生命体」をあらわします。

これはとりもなおさず、万物には「全知全能の神が宿っている」ということを表しているのです。

 I     am    that   I   am

 (神・いのち)   (人間及び万物の実相)

これが「宇宙本体の神と万物との関係」です。

それが「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」という表現にあらわれています。

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存在しない外の神

ただしこの旧約聖書の表現だと、「外の世界にある全知全能の神」と思わせるような表現になっていますが、真実は、そうではなく、それは内在している内在神のことを言っているのです。

歴史上、また現代でも、神を外にあるかのように表現することによって、人心を支配し操縦する宗教界の巧みな仕掛けがここにあるのです。

「寄らしむべし、(本当のことは)知らしむべからず」の巧妙な権威者の手口です。

これに気づける人は、なかなか、いないのではないでしょうか。

気づけないように彼らはこっそり誘導しているからです。

この表現一つに、実に権力者や宗教家の権威者にとって都合にいい「人心操縦術」が潜んでいるのですが、皆さんはこのことに気づかれていたでしょうか。

では、外に神仏があるかのように仕向け、人々にそう思わせる絶大な効果とはなんでしょうか?

それは、そうすることで、人は自分の中で、「力のない無知な罪深く弱い自分」を見てその無力感に打ちひしがれて、ますます外の他力の神仏にすがりたくなるように人心を操つる悪しき宗教が、多くの宗教に見られることに、皆さんは、気づいていましたか?ということです。

実は、神は外にはありません。

よくある霊的存在はここでは論外です。

それは、ここでいう神ではないからです。

でも多くの人が、神は自分とは別の外のどこかにいるかもしれないと思っています。

それは、われわれが、夜、夢を見ている間、いろんなことが、あたかも自分の外で起こっているように錯覚して見ていますが、実際には、自分の心の中で起こっているただの夢なのです。

それと同じで、神と人との関係は、実は自分の中の事実であり出来事なのです。

高天原(たかまがはら)も神界も、私の内なる神の奥にあります。

しかし外なる宇宙の果てまで行っても神はいません。

神の創造された荘厳で美しい宇宙があるだけです。

リチャード・ドーキンスの言う通り、外なる神とは、「神という妄想」です。

そんな神は存在しません。

幸福の青い鳥は外にはいません。

イエスの言う通り「実に、神の国はあなた方の内にある」のです。

神は神の国にしかいません。

そうではありませんか?

神はあなたの中に「I am that I am(私は在りて在るもの)」の<前者の一つの「aI」>として在るのです。

それは「目を見えるようにしている主なるわたしではないか、という神」です。

「永遠の命という神」です。

第一の「I am that I am(私は在りて在るもの)」の意味とは、すなわちモーゼに現れた「I am that I am(私は在りて在るもの)」は、宇宙の神(aI)vs人間及び万物(bI)の関係と言うことが出来ます。

これは、ものすごいこと、を意味します、実は。

どういう事かといいますと、この第一の「I am that I am(私は在りて在るもの)」は、「aI」も「bI」も、すなわち、神もその子の万物も人間も「神と同じくしこの上なく完全そのもの、この上なく美しくこのうえなく妙なるものだということ」を言っています。

それがまた、「I am that I am(私は在りて在るもの)」のあなたの本体としての「aI」の内在の神です。

その神は、宇宙の創造主の神の子であり、分霊(わけひ)です。

移し火は元の火と同じです。

神の子は神です。

猫の子は猫であるように。

それが「ほんとうの実在のあなた」です。

そういうことになります。

聖書ではこれを「はなはだ善かりき」と表現しています。

「そのままで完全だ」と言っている理由なのです。

その「自分の完全さ」を見つめる修行がまたとても大事です。

次回は、人間もまた、あなたも私も、「I am that I am(私は在りてあるもの)」という存在の構造をしている、という話をします。

しかし、ここでは、人間の場合、「aI」と「bI」とが、混在しています。

実は、「aI」は、内在の神という宇宙の本体の一焦点で、見る目としての神(前のIam)なのですが、普通、人間においては、もう一方の「bI」の肉体我のいろんな利己的思いの中に「aI」が、いわば、埋もれています。

むしろ、肉体我の「bI」が主で、内在の神という「aI」は埋もれ隠されています。

これが、このブログの「自観法」の中で述べましたように、「肉主霊従」の状態になっているということで、それが世の争いや戦争の種となっているのです。

今の人類の水準は、まさにこの「肉主霊従」の水準であればこそ、人生は誰にとっても辛いものであり、「人生は苦」の原因になっているのです。

だからこそ「自観法」がより良い人生には不可欠なんですね。

内在の神という宇宙の本体の一焦点として、見る目としての神(前のIam)を、なんとしても、今こそ、ここで目覚めさせ復活させなくてはならないのです。

人生の好転もそこからしか始まりしかません。

今回はこの位で。

次回、またこのブログでお会いしましょう。

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