人はなぜこの世に生まれてきたか?ー「I am that I am(私は在りて在るもの)」3

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”I am(私は在る)”とは何か?

前回までの”I am that I am”についての説明を、まずはおさらいします。

”モーゼに現れた神の正体”としての、第一の”I am that I am”からお話しします。

前の”I am(私は在る)”は、全知全能の「ただ一つなる存在、唯一物(ゆいつぶつ)とも言います」を表しています。

これは物理的宇宙が、いまだどこにもない”宇宙のビッグ・バン以前”の、全てが一つ(実は今でも””すべては一つ”ですが、このことは今は触れません)のそもそもの原初の、エネルギーだけがあった混沌状態を表しています。

日本の古典で言うと、「天御中主、アメノミナカヌシ、弥生語でアマノマナカヌチ」の段階の神を表しています。

ついでに、この「ただ一つなる存在である唯一物」がまだ”I am(私は在る)”の状態に宇宙があったときのことを描写した有名な文言が、インドの古典「リグ・ヴェ―ダ」の中にあります。

”その時、かの唯一物は、自力にて、風なく呼吸せり”とこの頃の宇宙を描写しています。

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人はなぜこの世に生まれてきたか?

そして、何年たったかは想像が難しい年月の後に、この「ただ一つなる存在ー私は在るーIam-」は、自分のことを多角的に知るために、すなわち様々な多様性のある万物の中で己を知るために、万物を創造し、その為に万物にまた人間に宿ったのです。

今でもその「ただ一つなる存在ー私は在るーI am-」は万物にそして、あなたに宿っています。

言い換えれば、実は、あなたはかの”一つなる唯一物の一人だった”ということです。

かの唯一物はあなたとなることによってこの世を、というより唯一物という自分自身をあなたの角度から見る、あるいは体験するために生まれてきた、それこそが究極のあなたの存在理由だ、ということです。

現に、あなたは世界に二人といません。

世界で唯一無二のあなた、その独自の個の角度(アングル)から、この唯一物の世界を観る、味わう、楽しむ、時には寂しむ、悲しむ、ということを通してこの世を見る。

とにかく、そういうあなたの角度から「一つの唯一物」のこの世界を見るために生まれている、ということです。

以前、このことに少しだけ触れた私のブログが「どんな人にも生きる意味があるー生きる意味と自観法との関係」でした。

そのブログの中で注目してほしかったのは、そこに登場する女優樹木希林さんが演じる徳江という老婆が言う、「人はね、この世を観るために生まれてきているのよ」というセリフでした

ついでに申しあげておきますと、以上の述べてきたことが、古来からの人類永遠の問い、”人はどこからきてどこへゆくのか?”また”私とは何?”への究極の答えだと私は思っています。

ともあれ、こうして「万物に神宿る」状態になったことを ”I am that I am”と表現したのです。

日本の古典に即して言えば、”I  am-私は在る”の天御中主から”物質を生み出さんとするという意味の”カミムスビから始まって、多種多様の宇宙の誕生となったという意味のタカミムスビの時代を迎えたということ、それが「万物に神宿る」という意味の”I am that I am”なんです。

前のIが、”原初の私は在るーI am”であり、後ろのIが、万物に宿る”原初の私は在るーI am”の分身・分霊のことです。

これを一言で言うと、「ただ一つなる存在、唯一物(ゆいつぶつ)」である神とその分身・分霊の神の子としての万物ということです。

むろん人間はこの中に入っています。

しかしこれは眼に見える三次元の話ではありません。

それぞれの眼に見えない生命の次元についての実相です。

従って、神はもちろん万物もすべてが、生命の実相の中では、全知全能、完ぺきにして完全、至美至妙、無限の生命・愛・智慧に満ちている中にあります。

そして、雲の上のようにいつも青空のように晴れている世界です。

雲が出たり雨が降ったり嵐になるのは、雲の下の現実と呼ばれている現象世界です。

すなわち、以上の「I am that I am(私は在りて在るもの)」というのは、神と人、神と万物の実相の話です。

今、目に見える現実世界を含めてでいうと、「I am that I am that I am]という言い方が正確かと思います。

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人間は二つの階層のIからできている

ここには三つのIがあります。

それぞれ左から①②➂としましょう。

既にみてきましたように、①②のIは神とその分身・分霊ですが、最後の➂のIは、人間で言えば、自我ないし肉体我というIです。

鉱物・植物・動物までは➂のIと②のIはほぼ調和していますが、人間の場合は、➂のIと②のIとの調和が上手くいっていないのが普通です。

その理由、それは人間だけが、仏教のいう”識(しき)”というものを持っているからなのです。

この識についての話は長くなりそうなので次回に回します。

次回、また、このブログでお会いします。

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