神道の一霊四魂(いちれいしこん)説も”I am that I am”のことー

スポンサーリンク

ほんとうの一霊四魂説

今回は、神社神道でも古代神道でも最も関心の高いものの一つ、「一霊四魂説(いちれいしこんせつ)」を”I am that I am”の神の法則との関連で取り上げてみたいと思います。

ほとんどの神道家や学者は、これを一霊というものと四つの魂と解釈していますが、そうではないことを、「神文」は正しく伝えていることを説明したいと思います。

第一に、ウイキペディアにもありますように、一般に、「一霊四魂」は古代神道の霊魂観として説明されるんですが、実際には幕末以降に平田篤胤(ひらたあつたね)の弟子である本田親徳(ほんだちかあつ)によって唱えられた特殊な概念であり、弓前文書の神文(かみふみ)を除いては一切ない伝承です。

弓前文書の神文(かみふみ)は平成五年まで世に隠されていましたから、彼らが「神文」の存在は知るはずはありませんので、古典上の根拠など一切なく、かってにあて推量で一霊四魂説を言い出していたのです。

本田親徳(ほんだちかあつ)

だから、いろんな点で間違いだらけなのです。

出口王仁三郎などは、

「荒魂(あらたま)は神の勇、和魂(にぎたま)は神の親、奇魂(くしたま)は神の智、幸魂(さちたま)は神の愛であって、即ち所謂(いわゆる)霊魂である。而して直霊(なおひ)なるもの之(これ)を主宰するのである。」などと勝手な嘘を平気で堂々と言っています。

「直霊なるものは、神典にいわゆる神直日(かんなおび)・大直日神(おおなおび)である。「省(かえりみる)」という心情は、即ち神直日大直日の働きである。」などと、もっともらしい出まかせも言っています。

出口王仁三郎(でぐちわにさぶろう)

皆このたぐいです。

本田(ほんだ)親(ちかあつ)徳― 長澤(ながさわ)雄(かつ)楯(たて)―出口(でぐち)王(わに)仁三郎(さぶろう)―小林(こばやし)美(び)元(げん)、他にもおられると思いますが、皆この説で説明しています。

残念ながら、これは大間違いなんですね。

古典には、例えば大国主命(おおくにうし)のもとに「吾(あ)は是汝(これいまし)が幸魂・奇魂(さちたま・くしたま)なり」という神が現れ、三輪山に祀られたという記事があります

また、古事記でも、神功皇后(じんぐうこうごう)が、「墨江大神(すみのえのおおかみ)の荒御魂(あらみたま)」を国守神(くにもりのかみ)として新羅(しらぎ)に祀(まつ)ったという記述あります

しかしこの記述には、神には一霊と四魂があるなどとはどこにも書いてはいません。

それらは別個に活動する記述はあるが、一霊と四魂があるとはどこにも書かれてはないのです。

この一霊四魂説は、本田親徳とその後継者たちが勝手に想像し、神学的な意味づけをしたまでです。

有名な江戸時代の国学者、本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどから、魂には大きく荒魂と和魂の2種があり、和魂にはさらに幸魂と奇魂の働きがあるとはしていますが、それ以上のことは何も言ってはいません。

近世になって、一霊四魂は本田霊学系の後継者によって、古神道の霊魂観として重視されて構造や機能が勝手に語られながら、一霊+四魂説が一人歩きをしていったようです。

一霊四魂の構造

では、これより、古典の記紀(古事記と日本書記)の原書とでもいうべき古典中の古典の「弓前文書の神文」のなかの「一霊四魂」を見てみましょう。

結論から言います。

正しくは「一霊すなわち四魂」なのです。

「一霊と四魂」ではないということです。

奇魂(くしたま)・幸魂(さちたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)があってこれを統括する一霊という「直霊(なおび)」がある、という考えではないということです。

これが間違いなのです。

真実を伝える「神文」では、

まず、奇魂(くしたま)が、本霊(もとだま)としてあります。

これは何かと言いますと、「万物に神宿る」という時のその神そのものの分霊・分身です。

内在の神です。

倭人の弥生語で「カムアパナポ(kamuaupanapo)」といいます。

宇宙のゼロポイントフィールドから出てきたエネルギーに出合って生まれた「不思議なエネルギーの意志」、それが奇魂(くしたま)なのです。

別名を「直霊(なおび)、倭人の弥生語でナポピ」といいます。

宿る所は肉体の不即不離(着かず離れずの意)の背後。

背後とは、おそらく、人間も肉体と幽体という二重構造になっているその幽体の中という意味だと私は思っています。

次に、幸魂(さちたま)。

幸魂(さちたま)は、へそ下の丹田に宿って、奇魂(くしたま)と脳というコンピューターのオペレイターである和魂(にぎたま)とを結んでいます。

だから行使霊、指示霊とも言われています。

次に、和魂(にぎたま)。

和魂(にぎたま)は、心臓に宿って、人の胎児のときの肉体の形成をしたり、感覚器官や頭脳の形成を司っています。

よって、和魂(にぎたま)は(肉)体霊と言われたりします。

最期は、荒魂(あらたま)。

荒魂(あらたま)は、肉体の内で最も外側に対応している部分を言います。

頭脳に宿り、脳という名のコンピューターそのものです。

そこから、荒魂は和魂(にぎたま)の分霊だともいわれるのです。

生霊(いくたま)とも言います。

結論を言います。

「一霊四魂説」の奇魂(くしたま)・幸魂(さちたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)と”I am that I am”という神の法則との関連で言えば、次のようになります。

前のIが、奇魂(くしたま)・幸魂(さちたま)であり、後ろのIが、和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)ということのなります。

つまり、これが”I am that I am”という神の法則の日本古代版、つまり我が国の古代神道的展開だったということです。

スポンサーリンク

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク