ー神も仏もあるものか―という結果が起こる祈り方とは?

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神は、果たして人の不幸に沈黙しているか?

神はなぜ沈黙しているのか?あるいは、しているようになぜ見えるのかについて、すなわち、神はなぜ人の不幸に対して沈黙しているように見えるのかと言うことについて、もう一度お話します。

そのためには、繰り返しになりますが、 I am that I am という形が神の構造であるということ、そして、それは同時に人間の構造でもあるということを本当に理解する必要があります。

これが、「神は人を己に似せて造り給えり」の聖書の創世記の中の言葉の意味なのです。

まず神の構造としての I am that I am の前のIと後ろのIは神そのものであるということ,

前のIはゼロポイントフィールドの大元の完全円満になる神で、後ろのIは森羅万象に宿る大本の神の分霊であり同じく、無限にして完全円満全知全能光そのものであるという意味です。

次に例えば人間は同じ I am the I am の構造をしてるとは言っても、前のIは神そのものの無限にして完全円満・全知全能の神そのもの(奇魂・真我ともいう)であるが、後ろのIは小我、いわゆる私であり、あなたです。

前者のIは、高次元の5次元にあり 、後者のIは現実のあなたや私という小我で、肉体と共にあり、生死のある、タテヨコ高さの三次元の現象の世界に生きていて、ほとんどの人にとっては、特に探求しなければ、ここの三次元世界のこの世だけがよく見えて、その高次元の五次元の世界は、無意識界にあるので、そういう世界があるのかないのか、よく分からないというのが実情だと思います。

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請求の祈りと領収の感謝の祈り、あなたはどっちの祈りをしていますか?

しかも人間の構造である I am that I am において、後ろのIが思い信じ込んでいることを前のIが実現するような構造になっているので、多くの人が行っている「お願いする請求書のような祈りをしている限り、請求しているその人の姿だけがこの三次元の現象世界に実現されるという法則」に気づいていません。

従って、これに気づかない多くの人々の結果は、請求している現実しか 出てこないので、どうしても、人間の不幸に対して神は沈黙していると思うし、”神も仏もあるものか”としか考えられない、ということになるわけであります。

一方、ここで、領収書の祈り、つまりお願いではなく、感謝の祈りを していれば、前のIは、その感謝していることのみを実現してくれるようにできているのです。

”すでに得たりと信ぜよ!さらば得ん”ということは、得ていることに感謝し、前祝をして喜んで喜んで高揚した感情にあれば良いということなのです。

すると、その祈りが三次元の世界に少しのタイムラグを経て、現象化し現実化するということになるわけです。

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請求の祈りの結果と領収の感謝の祈りの結果

ですから、祈りの結果が、「神も仏もあるものか」という現象しか現れない時というのは、必ず、間違いなく、その人は請求書の祈りをしています。

思い当たるふしはありませんか?

じゃあ、どういう祈り方をしたら、祈りは叶えられるのか。

「神も仏もおられる」と、喜んでいられる状況の祈りというのは、一体どんな祈りなのか?

イエスの言う「あなた方が祈るとき、その祈りは既にかなっている。既に成功している世界があなた方の五次元の世界にある、だから既に得ていると思いなさい」というのは、これを言い換えれば、それは請求ではなく、確かにすでに頂いていました、ありがとうございます、という領収の感謝の祈りを捧げる祈りでなければいけないのです。

それは例えば、高級料理店で高額の料理を食べて満足して帰り際にレジで勘定を払おうとしたとき、神という方からすでにその料金は頂いているので、と言われている状況に似ているのかもしれません。

或いは、I am that I amという人間の構造から説明すると、前の五次元の高次元のIには、既に無限の供給、無限億万円の供給が与えられているので、ただそれを認め、嬉しい、楽しい、有難いとして狂喜しながら感謝する祈りを後ろのIがしていればよい、ということです。

むろんその信念に基づいた行動も起こします。

そうすれば、”神も仏もいる世界”が現出するようになるということです。

これが神社参拝では、お願いではなく感謝の祈りをしなさいと言う教えの背後にある意味です。

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