隣人愛の奥義ー隣人愛があなたの運命を変えるー1

隣人愛に隠れているあなたを救う素晴しい世界とは何か?

聖書のイエスの言葉の中に 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言う有名な言葉があります。

もっとすごいのは「敵の幸せのために祈りなさい」という言葉だと思います。

この教えはイエス・キリストの核心をなす教えです.

なぜイエスはこのような教えを中心として伝道したのか、というその理由を今回考えてみたいと思います。

「自分を愛するように隣人を愛する」ということ、更には「敵だと思える人をも許し愛し、その人の幸せを祈る」ということを、なぜその教えの中心としているのかということです。

そこには、あなたを救い幸せへと導く深い教えが隠されていました。

この道が「人が生きて行く上で、何故最高の生き方になるのか」という話です。

この話をします。

しかし、一般には、この教えが立派だとは思いながらも、そこに心からは納得できない違和感を持ったり、そんなことをする必要がどこにあるのか、それはまず無理、と反応する人々が大半ではなかろうかと思います。

隣人を愛する、なるほどそれは建前としてはよいことなので、それに沿ってなんとか真似事のようなことはできるとしても、自分に害を及ぼすようないわゆる敵にあたる人の幸せを祈る?

いくら何でもそこまではついていけない、と考えるの が普通だとはと思います。

そんなことを許していたら、どれだけ嫌な思いをし、実害を被るか分かったものではないだろう、と考えるのが常識というものかもしれません。

しかし、イエスはそんな心境は百も承知で、「敵と見える人にさえも幸せを祈る」ということがその人自身をも、本当に救うことになるのだ、と言って生涯にわたり自ら実行し人々にこれを説いていったのです。

では、その隣人愛の内に秘められている救いの真理とは一体何なのか、ということになりますね。

まあ聖書に書かれているイエスの生涯が真実だとしてこの話を進めますが、イエスは多くの人々の病を癒し 、悪霊を追い出し、とにかく人々の為にさまざまな苦しみを取り除こうとする生涯を送ったとされています。

シュヴァイツァー博士

その精神を受け継いで実行した人には、アフリカの聖者と言われたシュヴァィツァー博士やマザーテレサを始め有名無名の多くの方々がおられますが、イエスはその能力においては比較を絶しています。

しかし、当時のユダヤを支配していた特にユダヤ内部の宗教家や支配者 に対してその偽善 や欺瞞や腐敗を指摘したことによって彼らの脅威となり、彼らによって「社会を乱す者として」ピラトという当時のローマ総督に訴えられて、ついには十字架の磔(はりつけ)の刑に処せられてこの世を去っていきます。

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「彼らは自分がしていることが分からないのですから」とは何のこと?

その最後の磔(はりつけ)で、この世を去るに際してイエスは、「父なる神」に対し「父よ彼らを許してください。彼らは自分がしていることがわからないのですから」という、とても意味深長な言葉を残して息絶えます。

私はこのイエスの言葉「彼らは自分がしていることが分からないのですから」と言いつつ彼らを許していくイエスの言葉に注目します。

ここで彼が言う「自分のしていることが分からないのですから、という言葉のそのわかっていないこと」を知ることこそが、実は、イエスの言葉と行動を解く決定的な鍵なのです。

十字架上のイエス

そして今回、その「分からないこと、分かっていないこととは何なのか」について考えてみます。

これに合点が行けば、隣人を愛するということ、及び敵と思われている人に対してさえも、その人の幸せを祈るということがあなたの人生にとっていかに大切で重要なことなのか、ということが分かってくると思います。

つまり、イエスが言った「彼らは自分がしていることが分かっていない」という、それがどういう意味なのかについての核心に迫ってみたいと思います。

その話の前にまずお断りしたいことがあります。

それは、少し分かりづらいかもしれませんが、イエスの言っている「神、すなわち天にまします父なる神」とは、自分の外ではなく自分のうちにある「内在の神・父・宇宙」だという認識です。

「天にまします我らの父よ」という時、その神は天空のどこかの外にある神ではなくて、「自分に内在する五次元のような世界にある父よ」という意味だということです。

わが神道でも、「神は万物に宿る」と言って「神は内在する神である」とはっきり言っているわけですから この事に関しては、日本人にとっても、本来そんなに違和感はないと思います。

つまり「私の中に神がいます」ということなのです。

「私に中に創造主がいる」ということなのです。

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創造する内なる神には「私」と「彼」の区別がない

その神は、隠れたる所にいます私の世界の創造者であり、宇宙であり、ここが一番肝心なところなのですが、それは、実は宇宙の神の分身・分霊の神ですから、宇宙の神と同じように、その内在のわが創造神は「私と他人を区別しないということ」なのです。

いや、区別ができない、といったほうがよいかもしれません。

なにしろ神ですから。

ここが肝心なところであることを、まず肝に銘じておいてください。

自分と他人を区別しているのは、いわゆる私、自我の私です。

内在する神ではありません。

神およびその内在する創造力には私と彼の区別はないのです。

一方、「自我の私」はわがままで自分勝手で利己的であり、自分と他人を区別します。

単に区別するだけでなく、自分をかわいがり、利益や欲の為に他人を排除しようとします。

人を批判し、裁き、人の悪口を常に言うのも、この「自我の自分」です。

さらに脳というコンピューターが、どちらかというとこの自我や自分の欲得の為に使われて世界を小さく狭めた世界観を形成しています。

そして、「彼らは自分がしていることが分からないのですから」とイエスが言った「彼ら」とは、まさしくこの「自我の私」のことです。

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「タライより生まれて死ぬまでチンプンカン」

この「自我の私」は、基本的には、五官と脳とから成り立ち、本能や欲望に日々振り回されて生活する表面意識であり、衣食住のための生存競争や生殖(セックス)に熱中しています。

そして基本的には、無知です。

世間知には長(た)けているかもしれませんが、「人生や人間の奥の仕組みや真理」についてはよく分からず、この意味では「わけがわからず生きています」。

それでも赤信号みんなで渡ればこわくない、という心境で必死で生きています。

小林一茶に、「タライより生まれて死ぬまでチンプンカン」という句がありますが、まさにそういう中で、あたら大事な一生を無知であることにも気づかずに、そのままあの世に行ってしまうのが普通ではないでしょうか。

一方、あなたの人生や運命まで創造している潜在意識下にある内なる神は、私と彼の区別がありませんから、もしあなたが仮にAさんのことを絶えず呪っていたりすると、それは同時にあなた自身を呪っていることと同じなので、その不吉な呪いの不幸な結果があなたの人生にも必ず起こります。

昔の人はこれを長い間の経験則から知っていて、「人を呪わば穴

小林一茶

(落とし穴のこと)二つ」という教訓を後世の我々の為に残してくれています。

長くなりましたので、また次回このブログでお会いします。

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