隣人愛は最高の生き方です―「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」の真理3

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復讐するは我にあり、我これを報いん

前回、隣人愛のことについて、これは単に倫理・道徳の精神界に終わるものではなく、具体的なより良い幸せな生活にとっても極めて重要、不可欠な生き方であることを述べてまいりました。

この法則を発見したイエスという人物は神かと思うほど高次元の世界に通じていたと思われます。

それまでの伝統的なユダヤ教の世界においても、隣人愛の持つ深い真理を説ける人物は 現れなかったからです。

あなたの隣人を愛しなさい

しかし  イエスの 隣人愛までの深い真理は説けなかったとしも、その前段階と言いましょうかこれに近い真理が実は旧約聖書にも述べられていたのです。

それは旧約聖書の申命記32:35の中の「復讐するは我にあり、我これを報いん」という 言葉です

ここでは「復讐する我とは」人格的な神として表現されていますが、実は法則のことを言っているのです。

どんな法則か?

これまでの隣人愛1、2で申し上げてきた我々の潜在意識下の創造する創造主、神、宇宙、I am  thatI amの前者のI(アイ)のことを言っているのです。

それにもかかわらず、ユダヤの歴史は、この復讐するは我にあり、の神のお告げをおそらくは理解できかったのか、彼らユダヤ人の伝統となったのは「目には目を、歯には歯を」の復讐の論理でした。

そして中近東の世界では現に今だにこの復讐の世界に生きています。

アルカイダ、自爆テロなどの中近東世界の情勢は、不幸にもまさにその復讐の連鎖の真っ只中で生きていると言えます。

毎日が戦争です

毎日が「目には目を、歯には歯を」の戦いの中で、何億という人々が難民となり、食うや食わずの苦難と困窮の生活を強いられています。

神はなぜ黙っているのか、なぜ沈黙しているのか、

よくある質問です、疑問です。

本当は、それはただ一つ「隣人愛の奥義」を理解し、「復讐するは我にあり」の神の言葉を本当に理解することができれば、世界中、特に中近東の復讐の歴史を終了させることができるのです。
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これまでの自己犠牲的「隣人愛」

私は今あたかもどこかの教会の牧師さんか、神父さんのようにお話をしておりますけれども、日本のキリスト教の牧師さんや神父さんには、私の知る限りでは、平和への唯一の道としてのこの隣人愛を本当に分かって説いている人はいないようです。

説いてはいますが、あくまでも「道徳としての隣人愛」です。

神が我々を愛しているように、あなたも神に愛されているいかなる隣人をも愛しなさい。

我々があの世に召される時、イエス様の御許(みもと)に行けるように、といった要するに、隣人愛は倫理的に正しく実行すべきことではありますが、それ以上のものとしてはとかれていないように思うからです。

ネットで調べてみてもお分かりのように、「愛」の説明についても、エロスの愛とアガペ(カリタス)の愛との違いを説明し、キリストの示した隣人愛のそのアガペの愛の尊さの道徳性の偉大さの説明に終始しています

なるほど、これでは日本にキリスト教の信徒が1%以下しかいないというデータももっともだ、という実感を強くします。

それは世の中が汚れて荒(すさ)んでいるからではなく、イエスの教えを説く人々の真理の浅さにあると言うことだと思います。

ある文章を読んでいたら、次のような表現にぶつかりました

「キリスト教と言うと自己犠牲的な隣人愛」という表現です。

これはどうもやはり隣人愛に対する一般のイメージもこうしたものだ、ということが分かります。

そうした隣人愛の道徳に感銘し感動することはよくわかりますけれども、イエスの隣人愛はそんな底の浅い、無力なものではありませんでした。

そこに留まるだけの隣人愛では、とうてい世界の人々を説得し人々の行動を突き動かす行動原理にはならないのは当然のことです。

ここに止まっているほとんどの教会キリスト教の教徒がなぜ未だに人々の1%以下にとどまっているのかを考えてみる必要があります。

ほんとうは、隣人愛のどこにも「自己犠牲的ないし自己犠牲の要素」など一つもありません。

隣人の幸せを真剣に願う、その為に心の底からそのことを祈ることはそのまま同時に「自分の幸せを祈る」ことだからです。

その理由は、実はその隣人愛の祈りを実現する「あなたに宿りあなたの世界を創造する創造主は<あなた>と<隣人>の区別ができない神のような法則」からです。

<あなた>と<隣人>の区別をしないということは、<あなた>と<隣人>は元々一つであり、「<あなた>はその<隣人>であり、その<隣人>は<あなた>」であることを示唆しています。

このあなたの心に応じてその幸せを創造する隠れたる所にいます「法則の神」には、「彼我の区別」がないからなのです。

他者の幸せを願う隣人愛の祈りが、自分だけではなく他の人々の日々の生活や仕事、学業などあらゆる点において一層良くさせていく現実的なものすごい力があることを知らせなくてはなりません。

そうでなければ隣人愛とは被災地や困窮者への自己犠牲的なボランティアや献身的なものに限定されてしまいます。

伝統的なキリスト教の中では、隣人愛や敵愛の威力を発揮する内在する人の潜在意識下の創造力の法則や「思考は現実化する」視点から解かれている方は私の知る限り、日本では皆無に等しいです。

どの神父さんや牧師さんやその関係の教育者、おそらく内村鑑三や賀川豊彦のような立派な人でさえもキリスト教における隣人愛の位置づけをもっぱら道徳的にのみに説き、平和をもたらそうとする自己犠牲的なあり方だけが先行していたように思います。

そういう次元だからこそ、かつてのキリスト教カソリックの異端に対するきわめて残虐な愚行や十字軍の悪逆非道(あくぎゃくひどう)さ、などのおよそ隣人愛とは真逆な行いが平然と行われていた歴史があったことは当然であったと思います。

近年、欧米においても以上の系統のキリスト教離れが起こって衰退していくのは仕方のないことなのかもしれません

いわゆるキリスト教はカトリックを始めイエスの言う真理や信仰とはかなり大きな隔たりがあることは明らかだと思います。

クリスチャンサイエンス

アメリカでニューソート系のクリスチャンサイエンスやデヴァインサイエンスなどの新しいキリスト教運動が起ったのは歴史の必然的流れなのだと思います。

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「人を呪わば穴二つ」「人を愛せば幸(さいわい)二つ」

改めて言います

人を呪わば穴二つ

そして

人を愛せば幸(さいわい)二つ

人を呪うということは、人の悪口を言い、激しい怒りや暴力を振って呪う行為です。

その他人を呪う内容の表現は一つ一つ言わなくてもお分かりだと思います。

これを続けていると、相手も落とし穴に落ちるけれども、自分も同じ目に遭うという法則を述べています。

つまり復讐するは我(神の法則)にあり、そこで働いているのは、ある人が人を呪い呪い続け、とことん呪い続ける、すると、その心は、「彼我(ひが、呪った人と呪われた人)」の区別」が無い内在の創造する創造主によって、その人も共に同じ呪われた結果の痛手を受けるという法則です。

つまり復讐する神があなたの中にいて相手にもその災いの結果を出すが、同時にあなたにも全く同じ災いの結果に出合うということを、大昔の人は「人を呪わば穴二つ」と言うことわざで後世に残してくれたのです。

一方、人を愛せば幸(さいわい)二つ、この言葉は私の造語ですが、イエスキリストが隣人愛 ・敵愛を説くのは、そういう心とこの世の現象世界との関係の創造的仕組みによって、人々が幸せになれることを熟知していたからです。

大抵の牧師さんや神父さんはこの隣人愛を倫理道徳の範囲では熱く語っておりますが、それがまさか自分も他人も物質的にも精神的にも本当に幸せになることができる方法であったと言う説教は聞いたことがありません。

ネットで調べてもそういう牧師さんや親父さんはいませんでした。

人を呪わば穴二つであるならばその反対に、人をイエスが説いたように愛せば落とし穴ではなくて自分も相手も生きる幸福をはじめ健康や豊かさや 物事がうまく行く世界が開けて来るとしたらばこんな素晴らしい福音(よきおとずれ)はなかったはずです。

そしてその真理があなたを自由な世界に向かわせるということです。

なぜ他人を愛すると自分にも良いことが起こるのか、なぜ他人の幸せ・健康・豊かさを願うと自分にもそれが巡ってくるのか。

それは、何度も言いますように、あなたの潜在意識下の中に宿る創造する 創造主があり、その創造主は 、人格ではなく「あなた」と「他人」の区別ができない法則だからです。

神は私たちにそういう法則を生まれつき私たちの中に与えてくれていたのです。

その時、神は人格ではなく法則として、私たちに中に「I am that I am、在りて在るもの」として存在しているということがわかります。

「神の国はあなた方の内にある」(イエスの言葉)とはこのことです。

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