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映画「燃えよドラゴン」の冒頭のブルース・リーと師の会話
師:究極の技とはなんだ?
リー:”型”を持たぬことです。
師:よろしい。では、敵の前で何を思うか?
リー:敵などいません。
師:それは何故だ?(Why is that?)
リー:何故なら、”私”が存在しないからです。
師:なるほど、続けて。
リー:すぐれた武道家は、緊張を解いても油断しない、無心になってもぼんやりと虚(うつ、心ここにあらず)ろではない。敵が押せば引き、引いたら押す。好機が訪れても”私”は、攻撃しない。流れに従うだけです。
師:これだけは覚えておきなさい。敵は人間の心が生み出した幻想にすぎないのだ。
以上は、以前、大ヒットした有名な少林寺拳法のブルース・リーが主演した映画「燃えよドラゴン(原題:Eenter the Dragon)」の中の冒頭の一場面でのブルース・リーと師匠との会話です。
一般に公開された「燃えよドラゴン」の映画には、この場面はなかったように思ったのですが、あっても見過ごしていただけなのかもしれません。
というのは、今でこそ、武道の極意や特に人生の極意が、人間の中の「真我と自我との関係の中にある」ことが分かってきたので、この会話の深さが少しは分かってきましたが、この映画を見たころの遥か昔の若いころの自分には何を言っているのかチンプンカンプンだったので、覚えていないだけなのかもしれないからです。
究極の技とは”型”を持たぬこと・・・・いやー唸(うな)ってしまいますよね。
自由自在な動きということでしょう?
どんな道でも、どんな武道でもスポーツでも、まずは型からはいりますよね、それでその型をマスターしたら、それから型を超えた動きが出るとすれば出るが、普通、そこまで行く人は中々いない。
というのも、型すらマスターしないその型の途中で自己流の迷路に入って終わってしまう人も結構多いんですね。
その型を、本当にマスターした人だけがその型を本当に出ることができる。
「格に入り、格を出でてはじめて自在を得るべし」とはそういう意味でしょう。
要するに、型の段階にとどまってもだめだし、型を無視すればデタラメということで、もっとダメです。
まず、型をマスターして、やがて型からでていくことでその人の独自性、オリジナリティがでてくるということでしょう。
いずれにしても、型をマスターするのも極めるのも、自我が真我に目覚めて真我に基づくようにすれば、つまり前から言っております「肉主霊従」から「霊主肉従」の努力をしていれば、自由自在の境地(そういう状態)はより加速されるでしょう。
そしてそのいい方法が「自観法」だということです。
次のやり取りがまたスゴイ。
師:よろしい。では、敵の前で何を思うか?
リー:敵などいません。
師:それは何故だ?(Why is that?)
リー:何故なら、”私”が存在しないからです。
「敵などいません。」「何故なら、”私”が存在しないからです。」
これらの文言は、もっぱら自我の世界にいる私たちには理解できない世界です。
自我の世界の常識では、私がいてあなたがいる、あなたの中には、あなたの嫌な人、あなたの好きな人、敵も味方もいる。
一方、真我の世界では、「ほんとうのわたし」しかいません。
「わたしは、あなた、あなたは、わたし、の究極の神の世界」、「世界(宇宙)は一つの愛の世界」です。
そして、結論を言えば、ほんとうの実在の世界です、
だから、師の「これだけは覚えておきなさい。敵は人間の心が生み出した幻想にすぎないのだ」ということになるのです。
「敵は人間の心が生み出した幻想」?!
この文言は「敵はいない、実在じゃない」ということを言っている真理です。
「人間の心が生み出した」、とは、どういうことですか?
自分は人間、個人、肉体と思う心がある。
大抵の人はそう思って生きていると思います。
それが自分だ、と。
それが普通です。
しかし「そう思う限り、敵はいる」ということです。
だから「敵は人間の心が生み出した」ということになるのです。
それは「幻想だ」ということは、「人間、個人、肉体、そのわたし」は、「無」だと言っているのです。
そうなると、いわゆる個人主義や人間主義のヒューマ二ズムはどうなってしまうのか、どう解釈したらいいのか、ということになってきます。
ここまでくると、禅仏教の奥義です。
実は、これこそブルース・リーが極めた「少林寺拳法の奥義」でもあります。
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映画「椿三十郎」にみる「抜き身」と「鞘(さや)に収まっている刀」とは?
この「真我と自我との関係のこと」を暗示している、これまた世界的に有名な黒澤明(くろさわあきら)監督の「椿三十郎」という映画からも引用しておきます。
この「椿三十郎」とその前作「用心棒」とは今でも世界中で上映されている有名な映画です。
あるひょんなことから、三船敏郎扮する浪人の剣の達人である椿三十郎は、ある藩の善玉(良い方)の家老側の若侍たちの用心棒となります。
肝心の家老が反対側の悪玉に拉致(らち、連れ去られる)されてその救出ために三十郎は、何人もの人を斬(き)らざるを得ない。
しかし、救出した家老の奥方から、ある時、こんなことを言われます。
奥方:「助けてもらってこんなことを言うのは何ですが、やたら人を斬るのはよくないですよ。悪い癖ですよ」
三十郎:「切らなければ助けられないんでね」
奥方「あなたはなんだかギラギラしすぎていますね」
三十郎:「ギラギラ?」
奥方:「そう、抜き身みたいに、ギラギラ」
三十郎:「抜き身ですか?」
奥方:「あなたは<鞘(さや、抜き身を収める長い筒)>のない刀」みたいな方ですね。
よく切れます。
でも、ほんとうにいい刀は鞘に収まっているものでしょう。」と言われます。
ここでの「抜き身の刀」とは、自我のたとえで、「敵のいる世界に住んでいる」ことを言っています。
でも、ほんとうにいい刀は、自我が真我に収められているように、鞘におさまっているものだ、と言っているように思います。
これが理想であることを、この映画のラストシーンで、三十郎が若侍たちに、改めて語るのです。
「あの奥方の言ったことはホントウだ。本当にいい刀は、鞘におさまっている。お前たちも鞘に収まっていろよ。(それから、若侍たちは土の上に膝をついて、助けてもらったお礼のお辞儀をする。三十郎はまぶしそうにこれを振り返って見ているが・・・間をおいて)じゃ、あばよ!」といって三十郎は去っていく。
とてもいいシーンです。
「今回は、このへんでよかろうかい」
これは、NHKの大河ドラマ「西郷どん」の解説者、西田敏行さんのモノマネです。