
般若心経は全智全能の”形なき心の実相”を教える人類救済のお経ですーその4-
カタチがない神仏や自然宇宙と同じくカタチがないが故にそれらと一つである心の実相が分からなかったばかりに、これまで多くの人が踏み込むことが出来なかった「天人合一(てんじんごういつ)」や「宇宙即我」の境地が開けてきます。
カタチがない神仏や自然宇宙と同じくカタチがないが故にそれらと一つである心の実相が分からなかったばかりに、これまで多くの人が踏み込むことが出来なかった「天人合一(てんじんごういつ)」や「宇宙即我」の境地が開けてきます。
タイトルの「摩訶般若波羅密多心経」とは「彼岸ないし目標に至らしめる全知全能のこころの教え」という意味であって、決して「彼岸に至らしめる智恵の完成のエッセンスの教え」という意味ではありません。その解読をします。
学者たちの般若心経解釈で犯した最大の罪は、般若心経のみにあって600巻からなる「大般若経」にはないものを無視してきたことにあります。 その無視してきた<一切の苦しみを解決する>ことこそが般若心経のホントウの価値なのに、です。 それこそが貴重な人類救済の経典を台無しにし仏教界の衰退をもたらした元凶なのです。 万死(ばんし)に値する、と言ってもよいでしょう。
般若心経の教えは「一切の人々の苦しみを解放すること」にあります。これを大般若経の「空のエッセンス」と捉える学者は「思議(かんがえる)」ことばかりして、「行深般若波羅密多」の行を一切しないので永遠に「度一切苦」を本当に体験し理解することは出来ません。
人が利己主義を中々越えられない理由ーそれは「我即肉体」の自己像に支配されているからです。こころは気のエネルギーのように、形なく境がないという事実の自覚を得ると、「一つの心と命即我」に目覚めることが出来、一々求めなくても幸運が自ずから、すなわち自然からやってくるようです。親鸞聖人はこれを「弥陀の本願力」と名づけました。
幸運な生き方求めている人は、当然ながら、とても多い。そしてこの問題へのアプローチとしてよく「徳を積むこと」を強調する識者が大昔から、例えば中国の「陰しつ録」を始め多い。それは何故なのかを探求します。
善いことと悪いこととが交互にやってくる「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」という格言がありますが、これを歩一歩進め、「起こることは全て必要・必然・ベスト」だと考えることが人生のより深い真実だとわかると、この世が実は「善一元の世界」であった、とよく分かるようになります。これはとても大きな喜びです。
”ほとけの智慧の完成”などというあいまいで意味不明な般若心経の解説だから,般若心経は今や無用の長物と化しています。「空」が分かれば般若心経は世界最高の現世利益のお経だとわかります。
般若心経とは生命(いのち)の実体である心の教え、という意味で、それをこそ「空」というのであって、「空」とは決して「何もない、カラッポ」という意味ではありません。
般若心経は「空」を知ることが一切の苦しみや災厄を救う原理なのに、「空」を「非実在、非本質なもの」と解釈して世を「諸行無常」とミスリードしている学者や僧の人たちが多い。