剣豪、宮本武蔵が「外在の神に頼らなかった」本当のワケとは?

 宮本武蔵の生涯

宮本武蔵は剣豪としてとても有名ですが、生まれは播磨国(はりまのくに、今の兵庫県)、 ないし美作国(みまさかのくに、今の岡山県)の生まれとされています。

13歳で生き死にを賭けた決闘を始めて行なって、この時新当流の有馬喜兵衛に勝利してから60あまりの戦いでそのすべてに勝利を収めたという伝説が残っています。

有名な戦いでは、佐々木小次郎との巌流島ですが、その後、関ケ原の戦いの大坂の陣に参戦したと言われていますけれどもこの頃の記録はあいまいです。

その後、島原の乱が起こると養子の宮本伊織(いおり) とともにこの戦いに参戦しています。

晩年には、細川藩の客分として招かれて熊本に移り、42歳であの有名な「五輪書(ごりんのしょ)」などを書い

巌流島の戦い

ています。

水墨画、「枯木鳴鵙図( こぼくめいげき(もずのこと)ず)」は国の重要文化財に指定されているほど芸術家としても大成しています。

武蔵のそのなくなる7日前に書かれたと言われる21箇条の人生訓「独行道( どっこうどう)」は有名で す。

枯木鳴鵙図

61才でこの世を去り、その日は1645年6月13日とされています。
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武蔵が残した名言

武蔵が残した有名な言葉のうち、次の三つの言葉を足がかりに武蔵の悟りの境地というものを考えてみたいと思います。 

その三つとは人生訓「独行道( どっこうどう)」の中にあり、

1、吾(われ)神仏を尊びて、神仏に頼らず

2、一生の間、欲心と見栄を 思わず

3、空を道とし、道を空とする自覚を持つ 

さて、1の「吾神仏を尊びて神仏に頼らず」についての解釈はおおむね次のように書かれています。 

「神仏に頼るのではなく、神仏の意にかなった心構えが大切」といったものです。

3については「道とは武士としての道で、空とは心のことで迷いのない心、無欲無心の心である」というのが一般的な解釈のようです。

次のような解釈もあります。

それは「欲や見栄(みえ、虚栄心)のない真っ直ぐな心こそが人生には最も大切なもので、そういう心によって道は開ける」というものでありますが、私はこの解釈は最も武蔵の真意に近いものではないか、と思っています。

欲と見栄(みえ、虚栄心)の狭い小さな世界を越えないと、人は誰でも平和で自由な大きな世界には入れません。

欲と見栄は生涯消えませんが、それが消えないままでも、少しでも人の役に立とうと思うだけで仕事でも人生でもより大きなエネルギーが自ずから湧いてくるものです。

前回も申しあげましたように、欲や虚栄心の心の在り方では、争いの世界を越えることはできません。

真の世界平和はこの心を越えた所にしかないからです。

2の「一生の間、欲心と見栄(みえ)を 思わず」ということを言っているところを見ると、武蔵は欲と見栄の狭い心を超えた広大な心の世界を考えていたようです。

それは般若心経(はんぎゃしんぎょう)で言う宇宙の根源の実在としての「空の世界」まで、すなわち「空即是色・色即是空」の「空」の一大真理まで意識していたのではないかとさえ思います。
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武蔵が「外在の神に頼らなかった」本当のワケとは?

3の「空を道とし、道を空とする自覚を持つ 」とはこの大宇宙の根源としての「空という絶対世界」にこそ「生死という相対世界」を託した武蔵の心境を表したものではないかと思います。

それゆえにこそ、「吾神仏を尊びて、神仏を頼らず」の信念を抱くようになったのではないかと思います。

この文言についてですが、「吾神仏を尊びて」までは誰も異論のないところですが、次の「吾神仏を頼らず」という言葉には 単なる「独立自尊の心」をさらに深めた自己観(セルフイメージ)があったように思います。

ズバリ申し上げれば、ブッダの教えの「自灯明の真理」に通ずる奥の深い真理です。

ブッダの「自灯明の教え」とは、「真理の道は自己の中にあり、自ら自身を唯一の灯(ともしび)と掲げて進め」という教えてあり、言い換えれば「人に仏性あり」「仏性すなわち如来なり」 という教えてあり、「人は、本来、内に神仏を宿している」という自覚のことを言います。

武蔵は、おそらくここまで踏み込んだ表現は誤解を招く恐れがあるため、そのままの表現は得策ではないと考え、よりやらやわらかな表現として「われ神仏に頼らず」 という表現に止めた、のではないかと思います。

しかし、どうやら武蔵の到達していた境地とは「もはや外なる神ではなく内在の神を自覚していた」フシあるように私には思えます。

それゆえにこそあの無我にして無敵の境地が可能であったのではないかと思います。

60回戦って一度も負けなかったという境地です。

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武蔵が強かった本当の秘密

人生にとって大切なものとは、なんといっても人の道と共に自分に対する自信(セルフイメージ)です。

自分に対する自信(セルフイメージ)が眞正にして高い人ほと高次元の人生を歩むはずです。

そして「われ神なり、仏なり」以上の自信はありません。

無論、この個我、肉体我、自我がそのまま神仏であるということではありません。

神と言ってもその自我や肉体を成立させている「命の実相」のことです。

その自覚です。

覚醒です。

その「自分について」の心の在り様、 心の持ち方こそが、それぞれの人の力(パワー、エネルギー、波動)の差となって、それぞれの人の現実を作り出しているのです。

これを実証する方法があります。

それが二人の人による立ち腕相撲です。

まず二人の人が相対峙(たいじ)して立ち腕相撲をします 。

その際、お互いに力の具合を計るために、少しずつ力を入れていきます。

すると、どちらかが 力が勝(まさ)って勝ちます。

次に、この時負けた方の人が、「神は私の中にいます」と自分に宣言し、もうひとりの勝った方の人は「神は私の外側にいます、あの神棚の中にいます」と言います。

そうした心の在り方で対戦すると、先ほど負けた人がまず勝つのです。

つよい念を入れるとか強く信ずるとかせずとも、そう言っただけで、

「神は私の中にいます」と言った人の方がおのずからパワーアップしているのです。

ただし腕力に相当に差がある二人の場合では、1回目に負けた人が「神は私の中にいます」と言っても、そうやすやすとは勝つことはないにしても、相当強い腕力の相手の人も、はっきりとわかるほどの力の差を、つまり、1回目よりはるかに相手が強くなっているな、ということがわかるはずです。

これは実証済みですので、皆さんも誰かとやってみれば必ずわかります。

このように見てくると、武蔵の「神仏に頼らず」の心の在り方こそが、つまり「神仏は我が内に在り」の悟りを「空を道とする真理」と共に悟って、常にそのような境地にあればこそ、武蔵はあれだけの強さを発揮できたのではなかろうか、と私は密かに思っているのです。

そういう意味では、武蔵は、剣の道を通しての求道者(ぐどうしゃ、真理や悟りを求める人)であったと言えるでしょう。

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