クラーク博士の略歴
クラーク博士の”少年よ!大志を抱け”という言葉はとても有名です。
この言葉は、クラークという先生が、明治時代、今の北海道大学の前身である札幌農学校の教授として来日し、その仕事を終えて帰るときに学生たちに励ましの言葉として送った有名な言葉としてよく知られています。
改めてクラーク博士の略歴を Wikipedia から引用してみます。
本名、ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 – 1886年3月9日)は、アメリカ合衆国の教育者。
化学、植物学、動物学の教師で、農学教育のために来日しました。
1876年(明治9年)札幌農学校(現北海道大学)開校。
初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えていました。
この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じたと言います。
のちに、学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした人も多くいたようです。
日本ではクラーク博士として知られていますが、日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」の一人です。
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「夢」と「志(こころざし)」の違いは何?
さて、今回はこのクラーク博士の残された「大志を抱く」ということが、実は、人生においては、実に深い意味を持っている、ということをお伝えしたいと思いこの一文を草(そう)しました。
一般に人生に目的を持って生きようとする時、その目的を表す言葉として二つの言葉が使われます。
一つは「夢」であり、もう一つは「志(こころざし)」です。
この二つの言葉は同じような内容を持つようにも思えますが、実は大きな違いがあります。
まず「夢」とは何か、ということについて考えて みます。
皆さんもいわゆる「夢」というものを未来に描いたり考えたりしたことは必ずあると思います。
将来何になりたいか、何をしたいか、それはその人にとっての理想的な何かであるはずです。
サッカー選手や歌手になって輝きたい、 ノーベル賞をもらうような学者になりたいとか、
或いは大きな会社で重役になって裕福にすごしたいとか、とにかく日本一の何かになる、といった将来の夢ですね。
自由に夢想するのは楽しいですよね。
一方、同じく人生の目的として掲げる対象として「志(こころざし)」ないしは「大きな志という大志を抱く」という表現があります。
「青雲の志」などという表現があります。
また、志といえば、例えば、この「志」という言葉を使用している「幕末の志士」のような人々を連想する方もおられるかと思います。
坂本龍馬(さかもとりょうま)や吉田松陰(よしだしょういん)のような人物が頭に浮かんできます。
ではこの夢と志、それは結局は同じものなのか、それとも別の世界のものなのでしょうか。
ずばり結論から言えば、夢というのは、やはり 両親のために立派な家を建てる、とか車はポルシェかフェラーリに乗りたい、とか といった明らかに個人の願望を主に思い描く世界だと思います。
一方、志といえば、無論、個人の願望ではあるのですが、その目的が多くの人の利益にもなる、あるいは役に立つ、といった公益的ないし社会的な広がりを持っている願望です。
やはり夢というのは自分だけの欲望やあくまで個人単位であるのに対し、志の方は自分を越えて社会的な利益をもたらそうとする、あるいは時代を超えて引き継がれる思いとか意思が強く込められている目的と言えます。
「志」には「そういうことなら私も協力したい、あいは援助したい」と思わせる何かが含まれているものです。
こう見てくると、どうしても夢よりも志の方がはるかに立派に見えるのですが 、どうしたものか、多くの人が、志と言うと自分のような者にとっては大それたことのように思われるのかどうか分かりませんが、あまり堂々と大きく志を語りたがらないように思えるのですが 、どうでしょうか。
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人生の目的には「夢」よりも「志」を持つほうが遥かに得(=徳)がある
私は人は堂々と立派に自分の志を立ててそれに向かって行く方が、いい意味で得策である、得である、と考えます 。
その理由は、と言いますと、夢だと単に個人的に何々したい、欲しいということで、「決意」において甚だ弱い動機、今の言葉で言えば、モチベーションがどうしても低いので、持続性が難しくエネルギーもそれほど多くは湧いてこないということがあります。
「将来は豪邸に住みたい」とか「フェラーリやベンツに乗りたい」と言っても、他人は「あーそう」と思われ、共感する度合いは甚だ弱い。
応援する気はあまり起こりません。
ですから「思考は現実化する」という潜在意識の創造力 の観点からしても、その力は弱く現実化の可能性もそれほど強くはないという結果になってしまいます。
一方、「志」の方は、その人の使命の自覚による、という条件はありますけれども、願望の成就の点から言って 実現する可能性はとても高くなります。
第一に「高い志」なら、何としてもそうしたい、そうせずにはいられないという強い決意がこもっています。
「志」には「世のため人のため」という「神の視点」が入っているはずです。
「人を喜ばせる」という神さんが喜ぶことをしているので、神さんが応援しサポートしてくれる、と言ういい方もできるかと思います。
モチベーションとして堂々と人の前で言える願望であるからです。
そうした意味で、それだけでも願望は実現しやすいという点で志は夢よりもはるかに強い力を持っています。
その 消え難く燃え上がる志の方が持続性があり強い意志を持っているので、例えば強い志を持ってその1日を始めるような人には、またその志に必要なコトやモノがおのずから引き寄せられる強い磁力のようなものが働くようです。
ですから”青年よ、大志を抱け”なのです。
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立ち腕相撲での検証の結果は?
このことは また例によって二人による立ち腕相撲で検証することができます 。
A の人が「私は私の家族のために働きます」と言い、 B の人が「私は私の地域の人々のために働きます」と言ってお互いに立ち腕相撲をすると B の
立ち腕相撲
人が必ず勝ちます。
今度は A と B の決意を逆に述べると逆の結果、そのA の人が勝ち ます。
さらに実験をして、今度はAの人が「私は全人類のために働きます」と言い、 B の人が「私は日本のために働きます」と言うと、結果は A の人がまず勝ちます。
この例からわかることは、単に自分の夢に生きるよりは、「大きな志」に生きるほうがはるかに多くのエネルギーを出やすく、したがって願いも叶う確率ははるかに高くなる、という事実を表していると思います。