あなたの心願を成就 させる根源となる「自観法」

あなたの悩みを根本的に解決へ 導く「自観法」

今回はあなたの悩みを根本的に 救う「自観法」の詳しいやり方についてお話します。

前回に自観法こそが人の健康の基本を支えている自然治癒力も、またあなたの人生を創造している潜在意識をもクリアーにし浄化するのにも非常に役に立つ秘法であるというお話をしました。

これまで何度か、「自観法の功徳」ということに触れてきましたが、要するに、多くの瞑想法と言われるものが数々あリますけれども、私個人としては自観法に優る瞑想法はないと思っています。

そしてこれを極めると 、己が命の神秘の奥の院に 神とも如来とも言えるような宇宙の中心を感じるようになれると思っています。

瞑想法
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 厄介な心というもの

「心こそ 心迷わす、あるいはこころ惑わす 心なれ  心に心ゆるすことなかれ」

沢庵禅師(たくわんぜんじ)の「不動智神妙録」にある歌だそうです。

心こそが、自分を迷わす張本人だから、自分が心に思うこと、感じることに、また自分の心の動きに 惑わされてはいけない、といった意味だと思いますが、昔から誰でも自分の心、特に「負の心」と言われる怒りとか憎しみとか恨みとか妬みとかというものをなかなかコントロールできない自分がいて、それに悩まされてまあ仏教式に言えば、これが「生きる苦しみの一つ」だということは、誰でも体験からよくわかっていることだと思います。  

沢庵禅師

仕事や家族のこと、お金や人間関係、それに健康などで多くの悩みを抱え、とにかくこの世を生きていかなければならない。

そういう世界に自分を支える哲学と言うか、支えになるような考えを持っていなければ崩れてしまいそうになる自分がいます。

かといって、人に迷惑をかけるとか犯罪に手を染めるというわけにもいきません。

人間社会で生きていく以上、人生では実にいろいろな問題が起こってきます。

一難去ってまた一難といったような感じで家庭内で、また対仕事や対人関係でやってくるのが普通です。

その度に悩んだり落ち込んだり不安になったり、ときには泣いたり怒ったり、と「平常心これ道」という世界からは程遠い日常生活を送っているものです。

それと「自分の人生を作っているものは実は自分である」、という「鏡の法則」の発見が今世紀最大の発見だと私は思っていますが、そのことがますます真実味を帯びて語られるようになっている現代、ここで言う自分とは「自分の心」のことで、その心が創造力を持った潜在意識 によって自分の世界が作られているということを考えた時、「現在の心」のコントロールがいかに大事なのかということがよくわかるわけです。

「思考は現実化する」とか「引き寄せの法則」とかの本が、今、流行しているのはそういう理由からだと思います。

このような観点からも、ネガティブなマインドないしフィーリングというものが、いかに我々の人生上にその影を落としているのか、ということを考えないわけにはいきません。

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「苦しい時の神頼み」はどうして叶わないのでしょうか

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。

苦しい時には、日頃あまり信じてもいない神様にでも頼む、という意味ですが、苦しくなっているということは、健康上あるいは経済上あるいは対人関係上、苦しい状態にあるということでしょう。

しかし「心の法則」の世界から言いますと、そういう「悪い苦しい状態」というのは、それなりの「悪い苦しい心の世界」がその前にあったからこそ、「潜在意識を通して」そのような結果になっているわけですから、まずはその原因となっている「悪い苦しい心の世界」を取り除かなければならないわけです。

したがって「苦しい時に神に祈ってもその祈りはかなわない」というのは理の当然で 、間違いなく叶うことはありません。

これは「心の法則・祈りが叶う法則」から言って当然のことなんですね。

したがって「苦しい時の神頼み」の祈りは「神も仏もあるものか」という結果しか得ることはできないはずです。 

そういうことから、神社神道では、「祈りすなわち祈祷(きとう)」 する前には必ず「罪穢(つみ・けがれ)」 を祓う「修祓(しゅばつ)」という行事を行います。

必ず、例外なくこれを行います。

この理は、むろん正しいのですが、一般の神社で行われている実際の「禊祓(みそぎはら)いの儀」というものは、余りに儀式化、形式化に堕していて効果のほどは保証の限りではありません。

この「儀式化、形式化」を「祭祀の厳修」と勘違いしているのかもしれません。

これは自己反省の意味を込めて申しあげておきたいと思います。

そして神社神道で言う「罪穢(つみけがれ)」というものを分かりやすく言いますと、既に申し上げましたように、生きていれば必ず起こしてしまうネガティブなマインドとフィーリングの感情ですね、これがまた罪穢れなのだということです。

ですから、すでに述べました「負の心」と言われる怒りとか憎しみとか恨みとか妬みとか悪口などがその罪穢れにあたるのです。

さすがにですが、イエスキリストは同じことを二千年以上も前に言っています。

正確な表現は忘れましたが「あなた方が祭壇にて神に祈る時、もし「不和の中にある隣人」が一人でもいるとしたら、まずその者との和解を済ませてから、祈りを行いなさい。そうすればその祈りは叶えられるであろう」という風に同じ真理を 述べています。

そういう意味で、すなわち、人生で成功や幸福を得る前提はまず 「ネガティブマインドとネガティブフィーリングを取り除く」ことが不可欠な前提になるのです。

以前、「ピンポイントでのお祓いでないと効きません」ということを言ったのは、そのことなのです。

その自分のネガティブマインドとフィーリングをもう一つの自分で、いかなる批判も裁きも 一切行わないで「ただ観(み)る、只管(ひたすら)自観する」ことがそのネガティブマインドとフィーリングを消去する画期的な方法の一つなので「自観法」はすばらしい、ということです。

精神分析学でも「その患者の過去にさかのぼってその患者のトラウマを発見し、それを「しっかりと理解し凝視して観る」ことによってトラウマの力を弱小化する、あるいは無くする」という方法と全く同じです。 

このいう意味の「自観の法」によって、やったらやっただけより良い方向に向かっていくということです。
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「自観の法」の具体的なやり方

次はその「自観の法」の具体的なやり方をお話しします。

自観法を一言で言えば、何度も申し上げますように、自分の意識あるいは心と言いましょうか、浮かんでは消え、消えては浮かぶその意識の流れ、それをそのままもう一つの自分で、意識的、意図的にこれを観る、と言う瞑想法です。

その時、どんなことを思っても、どんな意識が流れてきても、それに対して一切の批判とか審判とか反省をも下さずに、淡々とその流れを見るだけです。

私は茨城県の鹿島市という所に住んでいますが、そこに「国指定の鹿島神宮境内付郡衙跡(けいだいつけたりぐんがあと)」というところがあるのですが、そこを散歩してそこの草むらに座って自観をした時の様子を思い出しながら、例示します。

郡衙跡

かつての建物はないのですが、大きな公園のようなこの郡衙跡(ぐんがあと)の雑草が生えているところに座って、私の心はこの郡衙跡を見ています。

「先ほど見た掲示板には、<この建物はかつて奈良時代から平安時代にかけて鹿島神宮の経営のための正倉院・穀倉を司る役所>のような説明があったことを、私の心は思い出しているな。

なるほど、そうか、かつては鹿島神宮はどのようにして成り立っていたのか、あまり深く考えたことがなかったけれども、鹿島神宮を経営するための田畑を管理する役所というものがあったのか、と私の心は今更のように感心しているな。

大昔は、どういう風にして鹿島神宮は成り立っているのか、と前々から疑問に思っていたけれども、なるほどな、と私の心は思っているな。 鎌倉時代や江戸時代の頃は、鹿島郡や行方(なめがた)郡のあちこちに田を所有していることは文献で知っていたけれども、平安時代の頃までは、ここにこういう役所があって鹿島神宮の経営が成り立っていたのだ、と私の心は感慨深く思っている。 

やはり、当時、中央の政治を牛耳っていた藤原氏が、鹿島の神職の出身だったからだなあ、とわが心は思っている。

見渡す限りの野原で、少し大きな何の木かわからない、立派な大きな木が立っているのを私の心は見ている。

そこへ、突如、キキーという鳥の声を私の心は聞いていささか驚いているな。

何の鳥だろうか、モズの声に少し似ているが、モズではないな、と思っている、モズにしては少し姿も声も大きいな、と思っている。

それと、少し離れたところのやぶから黒っぽい、しかし青い光を全体に放っているキジに似たような少し大きな鳥が歩き始めているのを、私の心は見ている。

うむ?やはり雉(きじ) だ! 

その大きな奇妙な雉の声を聴いて「キジも鳴かずば撃たれまい」という句を思い出すな、と思っている。

ああそうだ、「セブンイレブンでサンドイッチを買うんだった」と、突然私の心は別のことを思い出しているな。「海苔もだ」と私の心は思い出してるな。」

雉(きじ)

とまあこんな要領で、何でもいいんです、そのまま、ここでは、あまり恥ずかしいこと、嫌なことを書きませんでしたけれども、そういうことも、静かにありのままに一切の遠慮や躊躇(ちゅうちょ)なく、じっと自観する、ということが肝心です。

注意点は、「私は思っている」「私は心配している」というよりは「私の心が思っている」あるいは「私の心が心配している」というふうに、自分の心をあくまでも客観視する言葉遣いがとても重要です。

少し長くなりましたので今回はここで閉じます。

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