「己を愛するように人を愛する」真我と「人を呪わば穴二つ」のエゴの世界、あなたはどっちの自分を生きますか?

鹿島神傳直心影流(かしましんでんじきしんかげりゅう)というのは、単に「武道の流派」のことではなく、”人生とは何か”の「人の理想的な生き方の極意」が隠されています。

その話をします。

直心影流の意味

直心影流という武道の流派があります。

正確には鹿島神傳直心影流と言います。

鹿島の神様から授かった直心影流という武道の極意のことです。

直心(じきしん)とは「赤子のような心」のことをいます。

これを言い換えれば「神の心」ということでもあるわけです。

この場合の神というのは人間に宿っている「生命体の神」のことです。

万物に神宿る、ということでありますから、あなたの中にも私の中にもその「生命体としての神」が宿っているわけです。

「直心」ということはこれでだいたいわかった。

では「影」とは何かと言いますと、 万物がそうできているのですが、当然肉体というものを持っています。

ここで言う影と言うのは肉体ないし肉体レベルの表面意識のことを指します。

ですから直心影流というのは、その直心の神が自分の肉体の動きにおのずから現れて「神技」となって現れることを理想とします。

目先の欲に阻(はば)まれる直心

しかしここに実に厄介な問題があります。

そう簡単に直心 即影となって現れてくる状態というのは至難の技であります。

なぜならそうはさせない強固なものが存在しているからです。

それは何か、と言いますと、肉体レベルの表面意識が持っている「欲望」と言われるものとか、人の目を気にする「見栄」 というもの、一言で言えば「人の個人的な欲望」というものが現れてきますので、それが 直心が前面に出てくることを妨げてしまうのです。

人間に欲望があると、直心をブロックしてその直心は前面に出て来れなくなるのです。

そうした中で一生懸命稽古に励む、何とかして強い達人になりたいと望む、この一生懸命の自我の欲望自体がその希望を阻んでしまうのです。

肉体的精神的な疲れが残るだけです。

脳波の状態で言えばそれはベータ波の状態です。

このベータ波の状態でいくら一生懸命やっても、むしろ、やればやるほど直心は出てくることはありません。

と言うか、出てこれない状態にしている張本人がその「欲」というベータ波の心の状態だからです。

煩悩具足(ぼんのうぐそく、心を煩わし身を悩ませる欲望があること)の人間の精神状態であるベーター波では直心が出てくることは絶対にありません。
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座禅・みそぎ祓いの限界

 ところがその反対に欲がなくなる、 人の目を気にする見栄じゃなくなってくると、己の中の神という生命体が前面に出てくるようになります。

直心が前面に出てきて、影すなわち肉体の動きに出るようになると、思いもよらない神技ができるようになるはずです。

だからその 無心無我の境地を求めて座禅をしたり、人はみそぎ祓いや滝行をしたりします。

 「剣禅一致」の中から、その直心の影向(ようごう、内在の神が前面に出てくろこと)を 目指した山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)などが有名です。

しかしどこまで到達したかはわかりません。

言うは易く行うは難(かた)し、 そういう理屈を言うのは簡単なのですが、座禅をしてもなかなか無心無欲の境地に至ることは、これまたほんとうに至難の技なのです。

なぜなら、座禅においては常に流れ来たり、流れ流れ去っていく意識の流れを無我無心になるよう目指すわけですけれども、これは自然の意識の流れを意志の力で止めようとするわけですから、土台無理な話。

10年20年やってもまだまだ、そういう世界です。 

実際、心が落ち着く、穏やかになると言った功徳はあるかもしれませんが、直心が影向するほどの無欲の境地に至る人は古来稀なり、というのが現状だと思います。

煩悩具足の凡人にとっては不可能に近い難行です。

あと、ヨガの方法というものもありますが、こちらは、ある一つのことに意識を集中して心があっちへ行ったりこっちへ行ったりふらふらしないように止める方法です。

清濁をあわせもつ意識の流れが来たり、また去って行く中で、ある一点に集中させることによって、これも結構時間がかかると思いますが、やがて清と濁とが次第に別れるのを忍耐強く待つように行う行法です。

やはりそれよりは、これまでご紹介してきました自分の意識の流れを流れのままに放置し、ただその意識の流れを一切の批判や裁きを加えることなく、ただ眺めて観る「自観法(じかんほう)」の方が遥かに楽で自然の理にかなっているのではないかと思います。

”観る我”をしてそのまま見る、”見られる我”をそのまま観させる、その自然の在り方は無理がなく、一見頼り甲斐がないように思えますが、結局は最も自然体の瞑想法ではないかと思います。
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目先の欲望をもとめない極意とは

それとやはりなんといってもまずは「目先の欲望を捨てる」ということが何と言っても大事なのです。
これがまた、なかなか難しいとえば難しいですが、ここにひとつの大きなヒントがあります。

「目先の欲望を求めない方法」、それは第一は、「一生かかっても到達できない、あるいは一生かかっても絶対に成し遂げることができない大きな欲望を持つこと」 です。

これが「目先の欲望を捨てる」一つの極意です。

第二の方法しては、 「日常の生活においても常に脳波をベーター波からシーター波に下げる努力をするということです」。

具体的には 「自観法」とともに「腹式呼吸」を心がけること。

「腹式呼吸」をすると確実に脳波が下がっていきます。

脳波が下がると、小さな欲望は無くなっていきます。

自分の講演のお知らせ

次に、私事で恐縮ですが、今度、東京お茶の水で「弓前文書」をからめて神道の講演をする予定があります。

この下にそのお知らせが掲載されている「パンドラの箱は開けられた」に載っていますので興味ある方はクリックしてみてください。

「己を愛するように人を愛する」真我と「人を呪わば穴二つ」のエゴ、あなたはどっちの自分を生きますか?

第三の方法、それは 「己を愛するように人を愛する」というイエスの言葉を実行することだと思います。

この反対の行為を表現する言葉に「人を呪わば穴二つ」という諺がありますが、これもまた本当に事実だと思います。

介護の時によくある場面として前回お話ししましたように、Aの人が B に向かって「愛しています、好きです」と思ってあるいは言って、 B の人の首を下から起こそうとしますと、らくらくと起こすことができます。

ところが、今度は A の人が Bに向かって心の中でだけでいいですが、「俺はあんたが嫌いだ、なんで俺が起こしてあげなきゃいけないんだよ、おおやだ、くそ」と思ってBの首を 持ち上げようとすると、今度はとても重く感じ、なかなか起こすことができない状態になってしまのです。

ですから日常世界においても、この「心の在り方」というものが、いかに我々の生活においても影響を及ぼしているのか、ということがよくわかるかと思います。

脳波を下げて「 愛や 感謝の言葉」を言葉に出して 病気に対して接すると、その病気が必ず快方の方に向かうという事実の重みを考えてみないわけにはいきません。

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