親鸞(しんらん)聖人の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」の救いの真理

 

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは煩悩が あるままで、そのままで救われているという不思議な阿弥陀仏<アミタ―バ、無限なるものの意>の世界のことです、

これを明らかにされたのがどうやら親鸞聖人のようです。

つまり煩悩があるがままで、これを引き受けて驚くべき幸福をもたらして救われるという不思議な話です。

今回はこの話です。

人はなぜ生きるのか

アメリカのインターネット検索サービスによりますと、大抵のことはインターネットで答えが出て来ることはご存知だと思いますが、そのインターネットがまず答えが得られない事柄があるというのです。

その第一位とはなにか?

それは、「人は、どう生きるかではなくて、なぜ生きるのか、その目的が分からない」ということ。

生きるということの目的は何なのかへの答えである。

これがインターネットで調べても答えられない第一位だそうです。

これが第1位であるということはどういうことなのか。

生きる意味という究極には、そう簡単には答えることができないということです。

もっとも肝心なことなのに答えられないということです。

こういうことに答える世界というのは、哲学ないし宗教の世界だと思われていますけれども、しかし現実の宗教界で行われていることといえば、たとえば我が国の神道と仏教についていえばおよそ次のようなことが言えるかと思います。

仏教界、神道界の現実

まず仏教ですが、現実に仏教界で行われていることといえば、まずは、葬式仏教であり、次に祈祷(きとう)仏教であり、最後は観光仏教であると言う事実です。

そのための経営仏教が仏教界の実際と言っても過言ではありません。

葬式仏教

つまり現世利益のための宗教に尽きるということです。

現世利益とは要するにお金儲けをはじめこの世の栄耀栄華(えいようえいが)のための宗教ということになると思います。

お金というのはなければ苦しみ ですが、十分にあるからといって満足出来ない、もっともっという世界です。

まあ金権仏教とでも言いましょうか、そんな状態になっていると言っても過言ではありません。

そしていくらお金が貯まってもそれだけでは心から満足できないのがこの世界です。

金に異常に執着する亡者ほどこの傾向は強いと言われています。

であれば本当の涅槃とか悟りの幸せということとは世界が違うようです。 

一方、神社神道でもこのような事情はそれほど変わってはいません。

現実の神道の世界では、まず祝詞と祭式による祭式型式神道、次に祈祷神道、それとパワースポットで呼び込む観光神道、そしてそのための経営のための神社神道 が仕事のほとんどと言って良いくらいです。

いずれも、人はどこから来てどこへ行くのか、自分とは一体何者であるのか、自分と神仏とはどのような関係にあるのか、と言ったその存立の根本的なことには深くはほとんど触れることなく、どんなにお金を儲けても贅沢をしても必ず死ぬということ、それは良いとしても、人間の事、死後のことを一切教え答えることができない宗教、それが現存の99、9%の宗教と言っても言い過ぎではないと思います。

現世利益をどれだけ手に入れても、必ず全てから引き裂かれ 一人行かなければならない後生(ごしょう)が待っているとしたら、本当は人は落ち着いてはいられないはずです。 

「後生暗い心」という言葉があります。

「死んだらどうなるのかわからないと思う心」です。

誰もが持っていて解決できていない不安要因です。

100%確実な未来が分からない、この心こそが、全ての人の苦悩の元凶の一つなのだと仏教は教えています。

”現在がなんとなく暗いのは未来が暗いからである”という言い方もできると思います。

親鸞上人(しんらんしょうにん)のたどり着いた「弥陀の本願」

有名な親鸞聖人という方は9歳で当時の比叡山の天台座主 、慈円の下で得度し出家してからは比叡山延暦寺で20年間にも及んで厳しい修行を積んだそうですが、 とうとう自力修行の限界にぶちあたって下山したと言われています。

親鸞の最大の願いはただ一つ、先ほど申し上げました、死んだらどうなるか分からない心、すなわち「後生暗い心」にあったと言います。

結局、9歳から29歳までの20年もの間、親鸞は抑えても払って

親鸞上人

もどうにも消えることのない煩悩と「後生暗い心」の未解決に泣かされてとうとう下山を決意してしまうのです。

ここにいても救われないと思い、 下山を決断し、やがて京都東山の吉水で浄土宗の開祖法然上人との運命的な出会いを果たします。

そこで親鸞聖人は「弥陀の本願」というものにとうとう出合い、活路を見出します。

これこそが親鸞聖人の救いの源です。

私たちには、どうしようもない、どうすることもできない煩悩の悩みがあります。

というより人はその煩悩の塊(かたまり)です。

法然上人

よく言われる「三大煩悩の塊」といってもいい。

まず、あれが欲しいこれが欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しい、地位が欲しい、異性が欲しい愛が欲しい、欲しい欲しいの貪欲(とんよく)の毎日。

次にこの貪欲が妨げられた時に起こってくる人や世間への怒涛の怒り。

あいつのせいで、こうなった、ああなったとか、どうしても思い通りにならないところから、人に対しても自分にないもので羨(うらや)み妬(ねた)み 、そのために人の不幸を聞いては内心喜こんでいる自分がいることに気が付くという情けない心を私たちは持っています。

週刊誌がよく読まれるゆえんです。

しかしこのような浅ましい自分の心の中の一方で、このような自分の煩悩 があるがままで救われる 「弥陀の本願」の世界があることに法然上人のおかげで気づくことができた 親鸞聖人の悟りが生まれます。

すなわち「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という世界です。 

「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という救いの真実

親鸞の表した「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の中に「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍(しゅうか)の波、転ず」という言葉があります。

その意味するところは、本願の大いなる「弥陀の本願」の慈悲の船に乗り、光明の大海に浮かぶと、この上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まっていく、ということです。

煩悩即菩提とは「生死即涅槃」とよく対(つい)で語られるように、悟り(菩提、喜び)とこれを妨げる煩悩とはともに人間の本性の働きから起こり、やがては煩悩が悟りの種、喜びの種となる 道理を述べた表現です。

煩悩の本体は、元はと言えば、真如(宇宙の元々の実在)から出ているものですから、煩悩を離れて菩提もなく菩提を離れて煩悩も ないということです。 

有漏(うろ、煩悩、ぼんのう)の穢身(えしん、よごれた身)は変わらねど、 心は浄土に遊ぶなり、と言っておられるように、 親鸞は<煩悩があるがままで救われる驚くべき幸福>を教えています。

煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞聖人は極楽浄土へ行って遊んでくるように愉快なのです。

この秘密は本当のところどこにあるのか、 このことについては、さらに次回深く掘り下げてみたいと思います。

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