「”こころ”にはカタチがない」という事実があなたを救う、そのワケ

前回、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは、煩悩が あるままで、そのままで救われている、という不思議な阿弥陀仏<アミタ―バ、無限なるものの意>の世界のお話をしました。

これを明らかにされたのが親鸞聖人(しんらんしょうにん)です。

つまり煩悩があるがままで、これを引き受けることによって、そこに”弥陀の本願(みだのほんがん)が”働いて驚くべき幸せをもたらして救われるという不思議な話ですね。

親鸞聖人の歩み

聖人(しょうにん)は、約20年にもわたって比叡山の中で過酷な修行の日々を送られました。

何とかしてこの煩悩に満ちた自分をどのようにしたら救えるか、という万人共通の願いを克服しようと悪戦苦闘を重ねていったけれども、無念の思いでついにこれを打開する道を見出すことをできずに比叡山を去る決意をします。

それから聖徳太子が建てたと言うお堂の中で、ある夢のお告げを受け、浄土宗を起こされた法然上人を教えられ、それから京都吉水の法然上人との運命的な出会い を果たします。

親鸞聖人

しかしやがて、「南無阿弥陀仏」を説く浄土宗は、昔からあった仏教の旧勢力からの迫害にあって二人とも島流しとなり、 その罪状を解かれて以後は、このお二人は死ぬまで、再び出会うことはありませんでした。

ところで、浄土宗では、「南無阿弥陀仏」をひたすら唱えることによって救われるという伝統の中にあるとおもいますが、親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」への 帰依は、もう一つ大きな山を越えた境地にあるように私には思えます。

「南無阿弥陀仏」とは、 阿弥陀仏に帰依する、 そして阿弥陀仏とは、「無限なるものの意味のアミターバ」からきています。

それは無量光仏(むりょうこうぶつ)とか無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも呼ばれています。

要するに、一般的には、「宇宙満ちわたるの神仏」と言ったら分かりやすいかと思います。
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親鸞上人の悟り

法然上人の方の浄土宗 はよく分かりませんが、親鸞聖人の浄土真宗の方は明らかにこれから「南無阿弥陀仏」を唱えることによって浄土に生まれることができるという考えではないように思います。

親鸞聖人においては、既に人は誰でも「南無阿弥陀仏」の状態になっているから、”すでに救われている”という驚くべき事実を主張しているように思います。

すでに救われているので、「南無阿弥陀仏」と唱えることはいわばその事実の確認であり挨拶のような捉え方をしているよう思えるということです。

そのことは、親鸞聖人自らが次のように述べていることによって確認することができます。

阿弥陀仏の本願、すなわち「弥陀の本願」というものはこの自然の中の働きとして既にある、ということです。

それはもう天体の動きから 私たちの細胞の動きや働きまで、その自然の働きがないところはないという考えです。

私たちが食事をして食べたものがすべて仕分けされ、血となり肉となって、さらに排泄される生命の働きも全てが「弥陀(みだ、アミターバ、無限なるもの)の本願」の力なのです。

万物に「弥陀の本願」が働いているということです。

そのことを、「阿弥陀如来の回向成就(えこうじょうじゅ)したまへるところに、あらざることなし」(教行信証、きょうぎょうしんしょう、親鸞聖人著)と聖人自ら記されています。

それほどに自然の働きとしての「弥陀の本願」が働いていないところはない、ということなのです。

そして親鸞聖人が辿り着かれた境地とは、有名な「煩悩即菩提」という考えです。

我々は誰でも前回申し上げましたような、救いがたい煩悩の塊(かたまり)として現実の生活を生きています 。

親鸞聖人においてもまた、死ぬまでこの煩悩の炎は消えることがなく、これを消すことはほぼ不可能であるという結論にたどり着かれていたようです。

ところが、更にこの煩悩はあるがままで良い、ということに気付くわけです。

ここが凡人とは異なる、さすがに仏智(人智をこえた不可思議智)を得られた着想なのです。

それが「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という考えです。
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煩悩即菩提の境地

煩悩そのままで菩提、すなわち涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、すなわちさとりによる喜びの境地にある世界のことです。

ここのところを理解するのはとても難しい。

考えても理屈ではわかるものではない。

また言葉による説明もとても難しいところです。

聖人も、 不可思議 不可称 不可説 としているところです。 

煩悩にして即菩提、煩悩のまま、そのままを受け入れ引き受ける親鸞聖人の”こころ”は赤子や 野に咲くなずなや野の百合のようにいつも喜びから微笑んでいる 境地のようです。

この親鸞聖人にとっての”こころ”とは、どこにもその形というものがないので、実は広大無辺で宇宙の果てまでも広がっている、しかもそこには何でもある、という世界です。 

まず第1に親鸞聖人はこれを悟られています。

”こころ”には、カタチがなく、したがって境というものもなく、実に 広大無辺なものであるということを悟られている。 

しかも「何もないカラッポ」かと思うと、さにあらず、何でもある世界です。

”こころ”というものがこのような性質を持っているということは近代科学の世界ではわかっていることですけれども、親鸞聖人がこれをどのようにして知ることができたかはわかりません。

何らかの方法で「仏智」を得られたということでしょう。
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「”こころ”にはカタチがない」という事実

ところで、俗に言う「虫の知らせ(よくないことが起こることを事前に知ること)」や「以心伝心(心から心へ伝えること)」や「遠隔治療(時空を超えて相手に心でエネルギーを送ること)」や「シンクロ二シティ(虫の知らせのような意味のある偶然の一致)」などの”こころ”の持つ広大さや境界の無さについてはすでによく知られているところです。

そして”こころ”はカタチがなく生きている、カタチがないということは、広大無辺で無始無終の永遠の存在である可能性があります。

その「カタチのなく生きている”こころ”」 という事実 を自分が納得して「今、現に、その中に私はある」という自覚を得ると、そのカタチのない”こころ”の世界にある「弥陀の本願」が働くようになります。

すなわち、人は誰でもすでに「南無阿弥陀仏」の状態になっているのだから、これまでの「肉体我」の自覚から、ただ「カタチのない”こころ”こそが自分である」との自覚を持てばいいということになります。

この自覚の下に、すべては弥陀の本願の働きによって物事がスムーズに運ぶようになるわけです。

煩悩そのままで、いつでも「喜びにあふれている自分がいる」という境地になる、ということです。 

親鸞聖人が開いた「浄土真宗」は、合計すると、日本で一番の信徒数で約一千万人を超えています。

真宗が言う「弥陀の本願」とは、自然の働きとして自分の中に既にいのちと共にある、そして、”こころ”にはカタチがないという事実を認めると、カタチがなければ自分と自然(じねん)との境がなくなるから、自分に自然(じねん)が働く、弥陀の本願が自分に働くということです。

”こころ”にはカタチがないという事実を認めると、カタチがなければ境が消えるから、「自然(じねん)という弥陀の本願」が自分に働くようになる。

だから人は大安心の中で生きられるのです。

そして安心に生きている人に智慧が自ずから湧いてくるのです。

そういうわけで、やはり、「浄土真宗」が日本で一番信徒数があるのにはそれなりのワケがあったのだと思います。

それは、声高に宣伝連呼強制しなくても、人々が自ずから集まってくる「自然(じねん)」の働き、すなわち「弥陀の本願」が働いているからだと思います。

 

 

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