現世利益を教える「般若心経」に隠されている画期的な真理とは?

 我が国で一般に仏教書で一番人気なのはこの般若心経(はんにゃしんきょう)と呼ばれる仏典と親鸞聖人の言葉が残された歎異抄(たんにしょう)だと言われています。

 確かにこの二つには多くの人々にとっての直接の救いとなるような何かがあるように思えるからだと思います。

そういう意味では、ことに般若心経という仏典には現世利益の色彩が濃厚に潜んでいることが分かっています。

般若心経の新たな発見とは?

今回はこの般若心経を取り上げてみたいと思います。

ただし、どこかに書いてあるような説を総合してミックスさせているような従来の多くの般若心経に見られるような解説ではありません。

無論重複しているところはあるでしょうけれども、核心においては全く新しい発見による解釈と言ってよいと思います。

ことに、ここでは般若心経という仏典にはいかに現世利益の色彩が濃厚に潜んでいるかをまず明らかにしたいと思います。

なぜが現世利益の仏典と言えるのか と言いますと、 般若心経の次の二つの文言がそれを物語っています。

それは「度一切苦厄(どいさいくやく)」という言葉と「能除一切苦(のうじょいっさいく)」という言葉が出てきていて、これを保障するように経典には書かれているからです。

「度一切苦厄」は「一切の苦しみや災いを解決する」という意味です。

「能除一切苦」は「一切の苦しみをよく取り除く」と書かれています。

本当にそんなことができるのか、とは誰だって思います。

もしそれが本当ならどんなに素晴らしい経典であろうかと思います。

それこそ誰でも随喜の涙を流して喜ぶはずです。
スポンサーリンク




では「この世の苦しみ」とはなんでしょうか?

仏教式に言えば、生・老・病・死(しょうろうびょうし)の四苦がまず挙げられます。

はじめに、この生・老・病・死の四苦を簡単に取り上げてみます。

まず、生きる苦しみ、これは言うまでもなく、大人であれば常日頃から感じていることです。

無論、子供も子供の世界でなんやかやと嫌なことに出会うのが普通です。

誰にとっても、生きるということ自体が難儀(なんぎ)なことです。

人は誰でもそれぞれ仕事を持って一寸先は闇の人生を懸命に生きていますが、いろんな障害が人生にはあるものです。

いつ病気になるかも分かりません。

いつ新型コロナウイルスに感染するか分かりません。 

いつ事故にあうかも分かりません。

無論、いいこともありますけれども、いつ勤めているところが倒産するかも分かりません。

対人関係一つをとっても悩みは尽きないものです。

それも人間は煩悩の塊ですから、いろんな思惑や欲望や見栄を持っている厄介な生き物であるがゆえに、いろんな問題が次から次へとやってきては我々を悩ますものです。

次に「老い」も誰でも訪れるものです。

身体や精神の衰えは否応なく歳とともに増してくるでしょう。

また病気も歳とともに多くの人々を襲う老いのしるしでもあります。

そして 親鸞聖人も悩んだと言われる「死後への落としどころのない不安」という悩みもあります。

とにかく生きるということ自体が「苦しみ」の側面を必ず背負っているものです。

以上の基本の四苦の他にさらに四苦を加えて「四苦八苦(しくはっく)」と言います。

 後の四苦の第一は「愛別離苦(あいべつりく)」と言い、愛する者とはいつかは必ず別れなければならない、という宿命です。

「会うは別れの始め」とも言います。

次は 怨憎会苦(おんぞうえく)で、 怨み憎んでいる者と出会うこと です。

例えば職場などで、どうも相性が悪い、という人が一人か二人は必ずいるものです。

要するにウマが合わないと言う相手がいると、とかく人間関係がこじれてお互いに面白くない関係になってしまようなことです。

 次に求不得苦(ぐふとくく)といって、 求める物がそう簡単には得られないことを言いますが、 これも人生にはつきものの苦しみの一つです。

最後に五蘊盛苦(ごうんじょうく)という苦しみがありますが、これは何かと言えば 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないことををいい、これもその通りで自分の欲望や心を自由自在に操ることは ほとんど不可能と言って良いものです。

以上の四つの苦を合わせて八苦と呼んでいます。
スポンサーリンク




「能除一切苦」を約束する般若心経

ところが、こうした「一切の苦しみや災いを解決する」と般若心経は約束しているのです。 

別言して 「一切の苦しみをよく取り除く」とも記しているのです。

同じような約束を始めの方と終わりの方で二度断言しているのです。

本当にそんなことができるのか、と誰しもが思います。

でも断言しています、約束しているのです。

どういう事でしょうか。

果たして真実はいかに?

ところがこの文言については一切触れないのが 権威があると言われる仏教の学者のかたがたです。

般若心経というのは基本的に「空の思想」を展開している仏教書だというのが彼らの言い分のようです。

たしかに般若心経は「空の思想」を中心にとても深遠で気が遠くなるような宇宙的な真理を展開しています。

その思想は、現代最先端の量子力学的宇宙観をすでに2000年以上も前にインドでは捉えていたことを示しています。

しかし、この「空の世界」について語ることで「度一切苦厄」と「能除一切苦」には触れることをしません。

ほとんどの般若心経の本を書いている人には実証できないからです。

だから触れたくないわけです。

二の次にしています。

しかし多くの人にとっては「空の真理」の話より「一切の苦しみや災いを取り除いてくれる」ほうが、その現世利益が欲しいし、一般の人々にとってはこの文言に惹(ひ)かれて般若心経を有りたがっているわけです。

なんかご利益があるように思ってさかんに写経しているわけです。

こんなおかしな解説もないのですが、世に出回っている般若心経について書かれたほとんどの書物がこの「能除一切苦」には触れていないように思います。

そうでなければ適当にごまかして書いています。

書店に行って仏教書のコーナーで般若心経の解説本をご覧になって見てください。

今言ったことは「当たらずといえども遠からず」と言ったことが分かるかと思います。

ところがこの般若心経には、「度一切苦」「能除一切苦厄」の爆発力が本当に秘められているのです。

今回からこの秘密にすこしでも迫ってみたいと思います。 

 単に新しい解釈というだけではありません、

実際にその解釈が我々の中に宿っている無限の力を呼び起こすほどに力のある考え方であるということです。

とりあえず、まずは漢訳の般若心経の全文を見てみることにします。
スポンサーリンク




般若心経の全文

ぶっせつ ま か はんにゃは ら み た しんぎょう

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

かん じ ざい ぼ さつ ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ しょう けん ご うん かい くう  ど いっ さい く やく

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

 しゃ り し  しき ふ い くう  くう ふ い しき  しき そく ぜ くう  くう そく ぜ しき  じゅ そう ぎょう しき やく ぶ にょ ぜ

 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

しゃ り し  ぜ しょ ほう くう そう  ふ しょう ふ めつ  ふ く ふ じょう  ふ ぞう ふ げん

 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

 ぜ こ くう ちゅう

是故空中 

む しき む じゅ そう ぎょう しき む げん に び ぜっ しん い む しき しょう こう み そく ほう

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

む げん かい ない し む い しき かい む む みょう やく む む みょう じん

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 

ない し む ろう し やく む ろう し じん む く しゅう めつ どう む ち やく む とく

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

い む しょ とく こ ぼ だい さつ た え はん にゃ は ら みっ た こ

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

しん む けい げ む けい げ こ む う く ふ おん り いっ さい てん どう む そう

心無罜礙 無罜礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 

くう ぎょう ね はん さん ぜ しょ ぶつ え はん にゃ は ら みっ た こ

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

とく あの く た ら さん みゃく さん ぼ だい こ ち はん にゃ は ら みっ た

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 

ぜ だい じん しゅ ぜ だい みょう しゅ ぜ む じょう しゅ ぜ む とう どう しゅ

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

のう じょ いっ さい く しん じつ ふ こ こ せつ はん にゃ は ら みっ た しゅ

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 

そく せつ しゅ わっ ぎゃ てい ぎゃ てい は ら ぎゃ てい は ら そう ぎゃ てい

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 

ぼ じ そ わ か はん にゃ しん ぎょう

菩提薩婆訶 般若心経 

以上が般若心経の全文です。

このブログでは、できるだけ学者的な解説は避けて本質に迫って行きたいと思います。

学者とは、とかく言葉の上だけで説明しようとする人種です。

それでは言葉の奥にある実体にはなかなか迫れないきらいがあります。

言葉には限界があるからです。

とくに多くの学者はわかっていないのにそれを言葉のみで本質に迫ろうとします。 

分かっていないことを理屈でのみで文章を書こうとするから、言い換えれば、仏智でしか分かりようがない悟りのようなことを書こうとするから、何を言ってるのかわからないような文章の羅列となるのです。

多くの学者の方の「般若心経」の解説本はこの類がとても多い。

読まされる方はたまったもんじゃありません。

次回から、 あなたの中の「自ずから然(しか)らしむる自然(じねん)」が働きだす「般若心経」の話をします。

お楽しみに。

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク