では般若心経とはどのような深 い真理を説いているのか、を見ていきたいと思います。
結論から言いますと、 これを本当に理解したらば他のどんな宗教もいらないくらいすごい内容が散りばめられていると思います。
それはこの般若心経の保証している「度一切苦厄(どいっさいくやく)」とか「能除一切苦(のうじょいっさいく)」 ということが本当のことだからです。
ところが、ほとんどの仏教の学者や僧侶達の考えはこの部分を避けてひたすら「深遠なる空の思想」を説いているだけなのですね 。
いっこうに人々の現実の問題解決の役に立つ「般若心経」になっていないのです。
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般若心経のいのちは「度一切苦厄(あらゆる悩み・苦しみを救う)」にある
ある人は次のようにコメントをしてこの「度一切苦厄」ができない理由を挙げてごまかしています。
すなわち「般若心経は、よく読まれるお経ですが、その内容はあまりよく知られていません。
短いがこの冒頭の一節の最後の「一切の苦厄を度したもうた」(度一切苦厄)という文は、サンスクリット原典には、小本にも大本にもありません。
おそらく漢訳者が心経最終段の「よく一切の苦を除く」(能除一切苦)を強調するために、ここに挿入したのでしょう。」などと言ってここの重要なところの解説ができないことの弁解をしています。
本当は「能除一切苦」は本当のことだから二度も言葉を変えて登場させているのです。
何故「能除一切苦」をもう一度繰り返しているのかを考えるべきです。
原典にあるかどうかはどうでもいいことなのです。
実際に「ギャーテーギャーテーハラギャーテーの大明呪」が本当に「能除一切苦」するからです。
しかも間違って空しい「空の思想」を説いています。
般若心経における「空」 には、 狭い意味では「何もない」と解釈できるが、一方ではその反対の「何でもある無限」という意味を持っていることを識別できていない解釈がほとんどです。
だから般若心経全体が見えてこないのです。
何を言っているのかよく分からないお経、ということになってしまうわけです。
どう間違っているのかはおいおい見てまいりましょう。
私が見させてもらった限りでは、この般若心経で実際に現実の問題を解決の方に向かわせる力を持ったお方の説明はほとんどありませんでした 。
ただ言葉の解釈をしているだけがほとんどです。
特に学者の方がこの傾向が強い。
だから実際の力を持った「般若波羅密多」である「呪(じゅ)」については分からないから、現実に病を癒したり、現実を変える力を持っている「能除一切苦の呪」の深い意味を理解し説明することができないのです。
単なる呪文(じゅもん)だと思っているのです。
なので、浅いレベルの「空の理論」で終わっているのが大半の般若心経本です。
岩波文庫「般若心経」(東大教授の中村元・紀野一義訳注)の最高レベルと思われているものについても例外ではありません。
結局、諸行無常・諸法無我(全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味)以上の般若心経が秘めているものすごいパワーを説明することができていません。
では、これから以上のような方々の説明ではない「般若心経の伝える真実」を見ていきたいと思います。
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般若心経が伝える真実
ぶっせつ ま か はんにゃは ら み た しんぎょう
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
この解説から。
まず「仏説」というのは、ここに展開されている般若心経の思想は、実際に説いておられる方は観自在菩薩のように見えますが、実は、それはもともと仏説すなわち釈尊という仏陀の到達されたさとりという意味をもっています。
摩訶 (まか)とは摩訶不思議の摩訶です。 「偉大な、とか、大いなる」という意味です。
次の般若波羅蜜多 の般若(はんにゃ)は、パンニャ という智慧を意味するサンスクリット語を音写したものです。
どんな智慧かと言うと、 波羅蜜多(はらみた)の智慧です。
波羅とは「彼岸(ひがん)」のことで別名「空」とも「涅槃」とも「悟りの世界」とも言います。
そこに至ることを、サンスクリット語で「密多(みた)」というのです。
空を涅槃とか悟りの世界とか彼岸 と同じとみなしている解釈は初めてではないかと思います。
さて、波羅の「彼岸(ひがん)」という空に対してこの世の目に見える形のある世界を「此岸(しがん)」の「色の世界」というのです。
彼岸とは、「彼岸という空であるカタチのない実体の世界」です。
その「彼岸という空である形のない実体の世界」を知る智慧のことを「般若波羅蜜多」というのです。
「空」を「形のない実体の世界」という解釈も初めてお目にかかったかと思います。
でもこの解釈が正しいのです。
そのうちわかります。
「心経」とは、その「”こころ”の世界を解き明かしたお経」ということです。
ですので、「 般若波羅蜜多心経」 とは、全体では、「カタチのない実体である彼岸(空)を知る智慧を解き明かす」という意味になります。
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「度一切苦厄」を約束する般若心経の要とはなにか?
次は、
かん じ ざい ぼ さつ ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ しょう けん ご うん かい くう どいっさいくやく
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」とは「観自在菩薩が、形のない実体であり 彼岸である 空を知る智慧の瞑想をした結果」であり、「照見五蘊皆空 」とは、「カタチはカタチのない実体の表れであることがわかった」という意味です。
「度一切苦厄 」とは、それによって「一切の”こだわり”から解き放たれた」という意味です。
通すと次のようになります。
「観自在菩薩が、形のない実体の ”彼岸である 空”を知る知恵の瞑想によって、カタチはカタチのない実体の表れであることがわかって、一切の”こだわり”からようやく解き放されたのである」となります。
ところが一般の解釈は次のようなものです。
「観自在菩薩が彼岸に至る智慧を得た時、形のあるこの世のものはすべて実体のないむなしいものであることを悟って一切の苦しみから解き放たれたのである」というまことに浅い解釈で終わっている場合がほとんどです。
「空」を「空虚とか実体のない虚(むな)しいもの」と見る、だから 「どんなものにもこだわりが亡くなって苦しみから解放された」というのですが、一体全体、「空」を「空虚とか実体のない虚しいもの」と見 て、そんな「諸行無常」の浅い空「空」を悟って、 人が一切の苦しみから、ほんとうに解放されるなどということがあり得るでしょうか。
ますます気が滅入ることがあっても、一切の苦しみから解き放たれるなどということは到底ありえません
その反対です。
「空」ではなくて、目に見える「色の世界」こそ「常に変化します」からその本質は実体のないものです。
虚しいのは、変転、変化してやまない般若心経で色と呼ばれる世界の現象世界の方です。
実体がないからです。
生まれたものは必ずなくなります。
かたちあるものは必ず変化し、やがてなくなります。
そこでこのフレーズの意味は次のようになります。
「観自在菩薩が形のない実体である「空」を知る智慧の瞑想をしていた時、空の実体を見て、カタチは空という形のない実体の表れであることを知って、カタチのある世界へのこだわりから一挙に自由になることができた」ということがここでの本当の意味です。