”無条件の喜び”を体験するために人は生きている

今回は、いよいよ「般若心経」最終の文言になります。

さて、これまでの一連の般若心経の解説をして参りましたけれども、その中で「空」と言われる「彼岸の世界」とは同時にこれを言い換えるとわたし達の「こころ・いのち・本当のわたし」なのだということを見てきました。

この解釈こそは「度一切苦厄」という人生の問題解決には不可欠な考えであります。

言い換えますとこれまでの、例えば岩波文庫版の元東大教授、中村元などに代表される「般若心経の解説」では到底「度一切苦厄」を 実現することなどできない 、ということを見てきました。

あのような「空の深遠なること」だけの言葉の解釈だけをしている限り、「度一切苦厄」とか「能除一切苦」 に到達することはできないということです。

事実、そのような成果が発表されたことなど聞いたことがありません。

これで、その内容がいかに「学問的だと称しても」その中身は推(お)して知るべし、と言うべきでしょう。

しかも「空」 とは、「彼岸」であり、カタチがない実体である「こころ・いのち・ほんとうのわたし」のことだとわかったら、カタチがないということは、我々は実はとてつもなく広大で無限なる存在だということに気が付きます。

この内容を言葉で言い表すことは、実は不可能であったのです。

言葉で表現された「空」とは、もう空ではないと言って良いくらい「不立文字(ふりゅうもんじ)」の世界なのです。

意識や意志を超え、言葉を超え、理屈を超え、現代科学をも超えた世界です。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、「不可思議、不可説、不可称」と称した世界です。
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般若心経の極意は「呪」の中にこそある

 般若心経の残りの文言は次のとおりです。

 こ ち はん にゃ は ら みっ た

故知般若波羅蜜多

ぜ だい じん しゅ  ぜ だい みょう しゅ  ぜ む じょう しゅ  ぜ む とう どう しゅ

是大神呪  是大明呪  是無上呪  是無等等呪

のう じょ いっ さい く  しん じつ ふ こ こ せつ  はん にゃ は ら みっ た  しゅ

能除一切苦  真実不虚  故説般若波羅蜜多呪

そく せつ しゅ わっ  ぎゃ てい  ぎゃ てい  は ら ぎゃ てい  は ら そう ぎゃ てい

即説呪日  羯諦  羯諦  波羅羯諦  波羅僧羯諦

ぼ じ そ わ か  はん にゃ しん ぎょう

菩提薩婆訶  般若心経

故知とは、「故(ゆえ)に知る」ということです。

「般若波羅蜜多」とは、繰り返しますと、「カタチのない実体である空という彼岸に至る知恵」のことです。

それは「是大神呪  是大明呪  是無上呪  是無等等呪」だというのです。

それは「まことに神呪なのであり」、「大明呪であり」、「最高の呪であり」「比べようもない呪である」というのです。 

自然を自然たらしめている「空なる自然」というものがあります。 

事実あるのです。

これこそが実体であり実在そのものです。

その「自然」にはカタチがありません。
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親鸞聖人のいう自然(じねん)とは?

親鸞聖人も、実はこのような意味で「自然(じねん)」という言葉を使っていたことが分かりました。

確か「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の中で「かたちもましませぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり」と。

「カタチがない自然」と言っているのです。

これは一般の常識とはまるで違います。

一般には、私たちを取り巻く「カタチのある自然」をいいますから。

そして「自然(じねん)のことは常に沙汰(さた)すべきにあらざるなり」とも聖人は言い、この自然は普通言われている自然のことではなくて、「空(くう)のこと」ですから、「不可思議、不可説、不可称」と言っているのです。

考えることも説くことも説明することもできないのだ、と言うのです。

極めた人は、皆、同じ結論、同じ悟りに到達しているのだと申せましょう。

もともと理屈というのは特定の範囲に限定しないと成り立ちません。

だから理屈では宇宙の実体(空)は分からないのです、絶対に。

科学という理屈でもです。

それが理屈というものの限界なのです。

つまり科学でも知ることはできないということです。

西洋のカント哲学でも、「現れている現象」の背後に在る「物自体」は不可知なもの(決してわからないもの)である、と言っています。

繰り返しますが、これを「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言います。

そして最後は、

のう じょ いっ さい く  しん じつ ふ こ  こ せつ はん にゃ は ら みっ た

 能除一切苦  真実不虚  故説般若波羅蜜多

しゅそく せつ しゅ わっ  ぎゃ てい  ぎゃ てい  は ら ぎゃ てい  は ら そう ぎゃ てい

 呪 即説呪日   羯諦  羯諦  波羅羯諦  波羅僧羯諦 

ぼ じ そ わ か   はん にゃ しん ぎょう

 菩提薩婆訶       般若心経 

で終わっています。

結論から申し上げます。

般若波羅蜜多」すなわち「空という彼岸という悟りに至る知恵」とは、 「念呪(ねんじゅ)」というということを 繰り返すことによって発現し創造する 「智慧としての」宇宙生命エネルギー を指しています。

例えばこの「念呪(ねんじゅ)」を1日1000回も実行すると、大抵の病気は快方に向かう、という例えをもって説明するとお分かりになるかもしれません。

これが「能除一切苦」と言われたゆえんです。

もし本当にそうなら素晴らしくないですか。 

このようなことができる根拠というのは、目に見える色界を根底で支えているのが目に見えない”無条件の喜び”の世界を包蔵(ほうぞう)する”空の世界だということです。

色即是空、空即是色、一切の形あるものである色界は、形のない実体である空によって成り立っているということです。

さらに言うならば、 空の世界というのは言葉では説明できないほど広大無辺であり、無限・無尽蔵な世界です。

形がないから逆に何でもある無尽蔵なのです。

それが空の世界です。

空とは決して「何もない世界のこと」ではありません。

むしろその逆です。

およそ生きとし生けるもの、日毎に登る日や夜空の星や月を見ても、地にあっては草花、木々など、自然界のありとあらゆるいきものが、基本的に赤子のように”無条件に湧いてくる喜び”にあふれて見えるは、「空(くう)の世界」という何でもある実体の世界の中の”無条件の喜び”がこれを支えているからです。

「病気であっても生きていられる」のは、般若心経で「空」と言っている「無限のいのち」の中の”無条件の喜び”がその肉体をその根底で支えているからです。
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「般若波羅密多」の「大神呪」の力

そしてこの世の目に見える色界は、言うまでもなく、「常に変化する」世界です。

「変化すること」が本質です。

たとえば病気であっても、実は、常に変化しています。

治る方にも治らない方にも、とにかく変化しています。

もしその病気の中にある人が、このことに気づいて「治る、治る、必ず治る」の「般若波羅密多である念呪」を繰り返すならば、必ずその人は快方に向かうでしょう。

しかし、大概の人は病気に直面すると、その病気が変化するまさにその時に、不安・心配さらには恐怖を持てば、それで病状は確実に悪化の方に変化していくのです。

問題は心の在り方、「念呪(ねんじゅ)」 のあり方で人生は決まるということです。

たとえ病気であっても「生きている」なかでの その変化しつつあるときに、現象界の「生きている」ことを支えてくれているのは絶対界の空の”無条件の喜び”であるから、心を病気の方ではなく、「生きていること」に向けて、その力(エネルギー)がその病気を包んで働きかけてくれることを「念呪(ねんじゅ)」し感謝し続ければ、その病気は一挙に必ず快方に向かいます。

しかしほとんどの人々が、まさに変化しつつあるその病気に向けて心配と恐怖で変化の流れを変えるものですから、病気がなかなか治らないのです。

このことに気づいている人は「病は気から」といいながらも、なかなかいません。

ですからそのカラクリをここでお伝えしています。

西洋式対症療法医学で事に当たる、日本のほとんどの医者の方々もその対症療法以外の方法には一切触れようとはしません。

それが何を意味するのかはここでは言いません。

皆さんで考えてみてください。

以上で、般若心経の「度一切苦厄」のための「般若波羅密多」の「大神呪」の意味とその素晴らしさが大体お分かりになったのではないでしょうか。

ガーテー ガーテー ハラガ―テーは、ただの「呪文」なんかではありませんでした。

これこそが般若心経の肝心かなめであったのです。

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