前回は、 “こころ”と目に見えない自然(じねん)としての”弥陀の本願”とには実は境がないという気づきによって、その気づの自覚によって、本当に自然の働き(自然治癒力)というものが実際に自分と肉体に働き出す、という意味の大切な話をしました。
自分をどう想うかによってその人の人生は決まる
何度も言いますように、大概の人は自分とはこの肉体である、この目に見える人間というものである、そういうふうに自分のことを見、考えておられると思います。
つまり、何々県の何々の町に〇〇を父母として生まれた「私」を自分だと考えています。
それは、至極当たり前のことではありますが、ところがどっこい、よくよく「自分とは何か?」と宗教哲学的に追求していくと、すなわち、宇宙の真実相の観点から見ていくと、実はもう一人の宇宙につながった自分というものがある、ということがわかります。
それは、仏教の禅宗などにおいて「父母未生以前の本来の自分」などといわれる時の”わたし”です。
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「私」と「わたし」という二つの私
ここで一つお断りしておきますが、この「私」に関するややこしさをなくすために、ここでの前者の誰もが認識できる肉体人間としての私を「私」という漢字で書き、 父母未生以前の私を「わたし」とひらがなで書くことにします。
この二つは密接な関係がありますけれども、それぞれ別の世界に属する私だからです。
ひらがなの”わたし”は般若心経の世界で言いますと「空の世界」に属し、実際の父母によって生まれた肉体及びその私は「色の世界」に属する、という意味では、ここに二つの自分があるという言い方ができるかと思います。
もっとも、自分という言い方がありますがこの文字の本来の意味はと言いますと、自分の「自」とは、そもそも「自(おの)ずから」とも言うように、元々、この言葉は永遠の昔からある宇宙大生命の意味の「自然(じねん)」を表す言葉であって、その「分け御霊(わけみたま)」が、「分」の意味ですから「宇宙大生命である神から生まれた神の子」というのが「自分」という言葉の本来の意味なのです。
ですから、”わたし”というのは「父母未生以前の存在として」肉体を持たない「空の世界」に属する自分という意味になるわけなのです。
この後者の世界を言葉で表現することがまずできないという意味で、古来、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝 (きょうがいべつでん)と言ってきた世界です。
何度か申しあげましたが、親鸞聖人はこれを「不可思議、不可説、不可称」と言われました。
西洋では例えば有名な哲学者、カントなどもこれを現象世界に対し「物自体」 として解明不能としています。
しかし、現代の社会は科学的論理主義の世の中ですから、事実は事実のままではこれを認めないのです。
愚かなことに、論理とか科学という理屈の裏付けがない場合は、事実として認めない建前になっています。
しかし現在の論理や科学は現段階では、たとえて言えば、大海の中の二、三滴の知識を持っているに過ぎません。
それもそのはず、理屈は「カタチの無い世界」を言葉でとらえることが、土台できないからです。
実際、学説と言われている99%が仮説であるということも知っておくと、論理や科学の仮説が万能だと考えるその考えこそは愚かの極み、非科学的だということがわかります。
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「心が病気ではない」ことを知って運命を変えたカント
ところで、このカントという高名なドイツの哲学者の話が天風先生の話の中にもあるので今回も「天風先生座談」(中村天風述)からの引用を要約しながら解説を加えていきたいと思います。
カントは貧しい馬の蹄鉄(ていてつ、馬のひずめを保護するU字型の鉄)打ちのせがれとして生まれました。
体が弱く喘息持ちで毎日苦しい、辛いとのたうち回っていたといいます。
年に二、三度、巡回してくるある 町医者との出会いがありました。
天風先生
これはカント自らの自叙伝にのる話ですが、カントは医者の言うことに一心に耳を傾けます。
「気の毒だね、君は。だが、それは君の体のことだよ。
さぞや苦しいことだろう、辛いことだろうと思う。
だがね、あんたの心はどうでもないだろう。
そして苦しい辛いといったところで、その辛い苦しいは治らないだろう。
苦しい辛いと言えば、おっかさんもお父さんもやはり苦しく辛いわな。
みんながね、余計苦しくなるよね。
しかしね君、その辛い苦しいという、その心が丈夫なことには喜び感謝できるんじゃないのか。
体はとにかく、丈夫な心のおかげで死なずに生きてるじゃないか。その丈夫な心に対し、喜びと感謝をしたらどうかね。
それはできるだろ。
それで体の方も少し良くなってくかもしれないよ。
頑張れ。薬は要りません。お帰り」という医者の言葉でした。
栴檀(せんだん、ビャクダンのこと)は双葉より芳(かんば、いい香りを放つ )し。
さすがに、後に世界の哲学者の最高峰を行くカント、小さい頃から違う。
じっと考えているうちに、そうだ、あの医者が言った心は病気ではない、すこぶる元気だ、そうか。
これを喜びと感謝に変えろと言うけれども、まさかそんなこと考えたこともなかったな、と気づいた。
苦しい辛いばかりが自分の口癖だった。
かといって、それをありがたい、と言えるだろうか?
確かに心は何ともない、とにかく心とこの体とどっちが本当の自分なのか、一つ考えてみよう、と思い始めたそうです。
ここが凡人と違う分かれ道かもしれません。
天風先生、このカントの話を知って我が事のように身につまされ、当時病気であった自分も心に対し、努めて毎日、嬉しい楽しいありがたいと思うように努めた結果、気持ちが少しずつ祓い清められたようになって、同時に肉体もどんどん回復に向かったと言います。
やはりマイナスの感情をできるだけやめると本来備わっている自然治癒力が働き出すということを天風先生も深く悟るようになったという話です。
それにしても、幼いカントを診たこの時代のその医者は、やはり経験上からか「こころが肉体に及ぼす影響力」を直感的に知っていたからこそあんなアドバイスができたのだと思います。
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自然治癒力は自分をどのように想うかで決まる
自己治癒力の話が出たついでに 、どうしたら自然治癒力が高まるかの話をしてみたいと思います。
元来、自然治癒力も、この肉体人間のことを自分だと思っているとあまり働いてくれません。
それは何故なのか、ということになりますが、肉体人間というのは形があります。
形があるから境があります。
しかし、自然治癒力というのは宇宙に遍満する宇宙大生命と密接な関係にあります。
自分を肉体だと思っている限り、そこに境があるわけですからその自然治癒力の働きは極めて限られたものになってくるわけです。
ですから「私」という自覚が「普遍的な宇宙大生命であるわたし」とならない限り、その自然治癒力の働きがせきとめられてしまうのです。
”こころ”はそういうハタラキを持っている、ということです
「私」が「こころ」同様に、「わたし」という広大無辺な存在としての自覚を持つようになると、その宇宙大の中でよく働いている自然治癒力が働くようになり速やかに病状も快方に向かうというわけです。
なぜかと言いますと、「私」が「わたし」の自覚を持つと”こころ”のブロックがなくなるから、元来、宇宙的規模をもつ”自然治癒力”が強力に働き出し始めるのです。
ついでに、今流行(はやり)のコロナウイルスに対してでもこの自己像の自覚による自然治癒力の免疫力は極めて有効であると思っています。
どうか「肉体我の私」から「宇宙大生命のわたし」の自覚に移行してコロナウイルスなど、問題にならないほどの免疫力を身につけてください。
悟りが現実を変えてしまう力を秘めているという一つの事実がここにあります。
大抵の医師もまず知る機会がない世界だと思います。
かつて筆者が大学生の時代、英会話教材販売のアルバイト先で、その講習会の時の一人の講師が、販売講習の余談に「よく”悟りをひらく”などと世間で言うが、悟りなんか開いて何のたしになるだろうね。暇人のやることだね」といった発言をきいて呆れたことがあります。
この方も高学歴の方でしたが、きわめて「金権主義的思考の持ち主」だったので、まあそう考えるのはもっともだとは思いましたが、「悟りを求める求道者」を尊いとも思っていたので当時反発を覚えたことを思い出しました。
悟りが現実を変えてしまうカラクリを「金がすべてのこてこての唯物論の信者」のこの御仁はご存じなかっただけです。