今回は、前回の「すべては上手くいっている」という天啓(てんけい)の続きの話をします。
その続きの第二言目の「早く本当の自分を知ろう」という天啓について分かっている話をします。
しかし「分かった」とはいうものの、後で訂正を余儀なくされるかもしれない可能性もありますのでその点はご了承願いたいと思います。
何しろこんな大それたテーマである「天啓」を全知者でもない人の子がわかろうとするわけですので、もって断りを入れさせて頂きたくお願いをたしたいと思います。
しかし必ずやお役に立つ情報、酌(く)むべき貴重な情報もあるやもしれませんという期待を込めてよろしく応援のほどお願いいたします。
前置きはこのくらいにして早速「早く本当の自分を知ろう」という天啓の実相に分け入っていきたいと思います。
天啓とは何か
天啓とは天から啓示が来るということです。
では、そもそも天はどこにあるのでしょうか。
天地とも言います。
青天の霹靂(せうてんのへきれき)という言葉もあります。
青空から突然アラレのようなものがいきなり降ってくるような状態を言います。
天にまします我らの父ともいいます。
天国と地獄は、比喩的にはこの世のこととしても言いますが、概ねは死後の世界考えられています。
「天高く馬肥ゆる秋」という天は明らかに目に見える世界のことですが、有名な夏目漱石のスローガン「則天去私(そくてんきょし)」の「天」は見える世界のそれではないことは明らかです。
このように、一口に天と言っても目に見える可視の世界の場合と「則天去私」のように目に見えない 世界を表す二つの「天」があります。
つまり物理的に目に見える可視の空の彼方の天と地、 深い宗教的次元における天と地の世界があります。
漱石(そうせき)
天啓の天、それは天にまします父と同じ不可視の次元の天でありこれは空の彼方の上空の意味ではありません。
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天はどこにあるのか
では不可視の目に見えない天とはどこにあるのでしょうか。
それは外在ではなく内在のの不可視の世界であることは明らかで、私達肉体に内在する不可視の世界でもあります。
とすると 天地と言った場合でも二つの天地の意味があります。
一つは天地宇宙といった場合漠然と無意識的に物理的宇宙の天と地球を意味する地を連想すると思います。
もう一つは 目に見えない内在する天と外在する目に見えるすべての世界を地 と表現することがあります。
したがって天啓も物理的次元における天空彼方からという意味ではなくて、次元を異にする内在の肉体の内の「今ここ」と言いますか、中と言いますか、更にそこから広がる天という意味になります。
そしてなぜここに、このように長々と天啓を始め天と地の話をしたかと言いますと、今回のテーマ「早くほんとうの自分を知ろう」 という話をするための前置きとして、そのための布石(ふせき)を敷いたということです。
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人間とは何か
したがって、天啓の天とは「内在の不可視の天」のことを指しています。
よく言われる潜在意識よりももっと深い次元と言いますか、霊的な奥の世界を指して「天」と言います。
ここでは「霊(れい)」という呼び方をしましょう。
分かりやすく説明するために結論から言いますと、人間はどうやら霊ー幽体ー肉体という三層からなる三位一体として存在しているようです。
「霊」というのは万物に宿る本来のいのちの分け御霊(わけみたま)とも言うべき世界で、般若心経が分かり良いので般若心経式に言えば、「空」という万物の本質としての目に見えない不可視の”いのち”の世界です。
我が国の神道で言えば、万物 (鉱物・植物・動物・人間)に宿る”分け霊(ひ)のことです。
日本語の真正の語源の一つである「弥生語」では、このことを「カムアウパナポ(本源の神より分かれた直霊<なおひ>)」と言っています。
また漢字の「自分」とは、「自という大自然から分かれた 霊(ひ)」という意味で自分と言います。
万物はどうやらこの”分け霊(ひ)”と肉体の二つが基本なのですが、人間だけは想念という他の生物とは異なる独自の精神世界を生きることによって、それぞれの人の人生が形成されていますので、いわゆる死んでからもその想念の結果としてのいわゆる幽界という世界が形成されていることが分かっています。
この幽界あるがゆえに人は輪廻転生する仕組みが形成されてしまっているのです。
ですから、多くの人間が自分の本体に覚醒する時代が来ましたならば、この幽界という世界は消滅していくものと思います。
他の動植物の生命体は本来の大自然の分け霊(ひ)のままに死に、また大自然の理によって生まれるけれども人間のように何万回も生まれ変わる ということはないようです。
人間だけが六道を輪廻転生するのは「想念は実現の母」という理によって心の力によってそういう世界が創造されているからです。
物質的な執着心の強力のな方々はその六道の世界をなんども転生するようです。
逆に、本当に悟りを得て宇宙大の本来の自分に覚醒すると、再び六道に入って肉体人間としてこの世に生まれることはないと言われるのはなぜかということですが、それは悟りとは何かがよくわかれば、以上のことはよくわかるようになります。
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悟りとは何か
悟りとは「彼岸に至ること」です。
では、彼岸とは何であり、どこにあるのでしょうか。
それは、”仏教で言う空の世界・阿弥陀仏の世界・大日如来の世界・妙法蓮華経の世界であり神の世界・天国・浄土の世界”であり、 宇宙が即我の世界であり「わたしはあなた・あなたはわたし」という自他は一体の愛の真理の世界のことです。
では、どうしたらこのすばらしい彼岸の世界に入ることができるのでしょうか。
それをわかりやすく示しているのが 般若心経です。
そんな素晴らしい世界に行かしてくれる秘訣と秘密が般若心経にははっきりと書かれているのですが、残念ながら、これをまともにわかりやすく説明してくれる学者や僧侶の方が、佛教大学にもほとんどいません。
実際にも、本でもお目にかかったことはなく、寡聞にして知りません。
なぜかほとんどの僧侶の方や仏教の大学教授は これに触れていません。
ほとんどの僧侶の方々は葬式仏教に、神道の方々は祈祷神道と観光神道での神社経営のことに専念しているのが現状です。
キリスト教も信者からの疑問に対しても「では一緒に祈りましょう」に終始しています。
失礼ながら、結局は分からないから触れられないのだと思います。
だから彼らには般若心経が約束する「度一切苦厄(人間の一切の苦しみや災難を救う)」ができない。
だから彼らには般若心経が約束する「能除一切苦(一切の苦しみをよく取り除く)」ができません。
ではその答えを私が理解した限りですが、話してみます。
般若心経は次のように教えていると思います。
般若心経は次のようにして一切の苦しみが取り除かれますよと優しく丁寧に教えています。
それは<彼岸に至るには、大明呪という「呪のマントラ」によって、彼岸すなわち宇宙大が即我、自他は一体の愛という真理の彼岸に完全に至ることができ、そこから大自然界の弥陀の本願が即働き出し、やがてすべての苦しみが取り除かれるように成りますよ>とはっきりと 教えています。
仏陀となられたお釈迦様は涅槃(ねはん、入定<にゅうじょう>、いわゆる死)に入るにあたり「私は再びこの世に生まれてくることはない。その目的を果たしたからである」と言われたと言います。
言い換えれば、人はこの世に何のために生まれてきたかの答えがここにあるということです。
「宇宙が即我、愛という自他が一体である神として生まれ変わること」によって、この世で「即身のまま成仏(神)する」ためにこそこの世に生まれてきたからです。
仏陀
ここに至るまで人は、多くの場合、何万回でも生まれ変わる宿命があるということです。
聖イエスとその弟子
かつてイエスも、このことについて同じことを述べています。
私なりの脚色で書いてみます。
ある時、ニコデモというユダヤ教の教師がイエスの下に秘かにやって来て、「あなたが神から遣わされたお方であることはよくわかります。ところで神の国はいつやって来ますか」と尋ねると、聖イエスは「神の国はあなたが想像しているようには来ない。人は新たに生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。」
するとニコデモは「すでにこのように私は年老いて再び母の胎内に入るわけにはいきません」と答える。
イエスの答えはこうです。「肉より生まれる者は肉なり。霊によって生まれし者のみが霊の神の国に入ることが出来る。」
結局、聖イエスもまた「肉に生きるのではなく、”本当の自分は霊のいのちなり、”「宇宙は即我、愛という自他が一体の<わたしはあなた・あなたはわたし>である神」として生まれ変わることが出来なければ、決して神の国に入ることは出来ない」と言っているのです。
人がこの世に転生している究極の理由が、「即身が成仏(神)していることを知ること」にあることを聖イエスも述べられているということです。
栄華を極めた豊臣秀吉の辞世の句にありますように、「露と置き露と消えゆく我が身かな難波(なにわ、大坂時代に天下人であった)ことは夢の又夢」だからです。
この世に来ているのは、究極をいえば、栄耀栄華を極める為ではありません。
そして「金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴に入るより難しい」(イエス)のです。
しかしながら、今聞かされたことは信じられない、そんなことは考えられない、という選択肢も大いにありです。
そんな仮説があってもいいんじゃないか、という程度のご理解で結構だと思います。
人は自由です。
人の考えは自由であるべきです。
人にはそれぞれ、その人の行くべき自由な選択肢が 用意されています。
次回もこの続きの話をいたしたく。