今回は有名な瀬戸内寂聴さんによる般若心経解読を覗いてみたいと思います.
読む前から決めつけるのは良くないことですが、 おそらくは、やはり中村元先生あたりを学んでからの解釈に終わるのではないかと予想しています。
しかし読んでみないとめったなことはいえませんので、興味津々ではあります。
では早速、寂聴さんの般若心経解読のお手並み拝見と行ってみたいと思います。
瀬戸内寂聴さん解読による般若心経とは
かんじざいぼさつ
観自在菩薩 [観音さまが、]
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時 [彼岸に渡るため悟りにいたるための行を行う時、]
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空 [人間の心の感受し認識する五つの要素がすべて 空であると考えて、]
どいっさいくやく
度一切苦厄 [私たちの一切の苦を救ってくださったのである。]
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寂聴さんの解説
人は彼岸(苦のない浄土)に渡るために、行をしなければならない。
つまり、六つの行をする。これを六波羅蜜(ろくはらみつ)という。
すなわち、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・
禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)である。
布施とは施すことである。
持戒とは、してはいけない戒律を守ることである。
忍辱は辛抱すること。
精進とは努め励むこと。
禅定は座禅をすること。
五蘊(ごうん)とは、色・受・想・行・識のことである。
色とはもののことである。現象の世界である。
受とは感覚のことである。目で見て感じることである。
想は知覚作用のことである。たとえば寒暖を感じること。
行とは意志の作用である。自分に無礼をはたらく相手には、つい憎みたくなる。
識とは認識することである。色と受と想が結びつくと認識がおこる。
ものがあって、それを感じる心、つまり識があれば
はじめて、ものが存在することがわかる、とあります。
筆者の見解
まずここまでの寂聴さんの解説を考えてみましょう。
はじめに寂聴さんの勝手な解釈が登場します。
それは「般若波羅蜜多を行ずる」 行法のことを「六波羅蜜を行うこと」と勝手に決めつけてその解説をしています。
しかしこの解説は明らかに間違っています。
般若心経には「般若波羅蜜多を行ずるということとは<呪を行ずる>ことだ」と、最後にその方法を示しているにもかかわらず、寂聴さんは勝手にこれを布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六波羅蜜行にすり替えてしまっているのです。
おそらく「是大神呪・ 是大明呪を 行ずる」という意味がよく分からないからだと思います。
そして、ここでも多くの仏教界の識者と言われている方々のように、「空」を「無い、実体がない」と言う致命的に間違った解釈をしています。
これは前回の花山勝友さんも同じです。
中村元先生も同じ考えです。
ただし、中村先生は、この「空」をインドで発見された0(ゼロ)と同一視する説ものせてはいます。
本当はこの方が正解なのですけれどね。
0とは宇宙創成以前の「ゼロポイントフィールドの世界」のことです。
中村元先生
宇宙の始まりのビッグ・バン以前の宇宙と言っていいかもしれません。
そして、般若心経における「空が無である」のならば、なぜ「無」に統一しないで、「空」の文字をわざわざ分けて使っているのかという、そのことになぜ疑問を持たれないのか、そこが不思議です。
空と無は違うからこそ、玄奘法師(げんじょうほうし)はこの二つの文字をわざわざ使い分けているのではありませんか。
ところが大抵の解説は空と書いてあるところも無 の意味にしか解読していません。
なぜ「色即是無・無即是色」と言わないで「色即是空・空即是色」と言いながら、一方では
無受想行識とか無眼耳鼻舌身意と無と空とを書き分けているのかを 考えていないのです。
何も無い「無」からは何も生まれることはありません。
だから空即是色なのです。
色は空から生まれたから空即是色というのです。
しかしながら、受想行識や 眼耳鼻舌身意は実体がなく、本来無いものだから「無」を冠して適切に表現しているわけです。
しゃりし
舎利子 [観音さまは舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、]
しきふいくう
色不異空 [ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、]
くうふいしき
空不異色 [ないということも、感じる心があれば、そのものは
あるのと同じである。]
しきそくぜくう
色即是空 [だから、形あるものは、実はないものであると
考えてよいし、]
くうそくぜしき
空即是色 [ないものと思うことも、実はあるものであると
考えることもできる。]
じゅそうぎょうしき
受想行識 [色以外の残りの、心の四つの働きについても、]
やくぶにょぜ
亦復如是
[まったく同じことなのである。]
寂聴さんの解説
<人は死んだら日本では火葬される。死体は煙となって空中に飛び、あるいは灰となる。
つまり、人間の身体を構成する有機化合物は元素に分解されるわけである。
それらは、植物や微生物の栄養となり、やがて動物や人間の身体となる。
寂聴さん
だから、目の前に見える人間もいつか死んでしまう。そして、人間は死んでも元素は
なくならない。人間や家畜という形があっても、それらはつかのまの存在にすぎない。
しかし、なにかというと元素というものになっているし、その後また別の生き物の
身体を構成している。>
以上は寂聴さんの解説ですが、この説明も少しおかしいと思います。
これでは色即是色という説明にしかならないからです。
さらに色から色が生まれるのではなくて、空から、すなわち空という生命(宇宙大生命)から色が生まれるのです。
しゃりし
舎利子 [舎利子よ、]
ぜしょほうくうそう
是諸法空相 [この諸々の法は、実体がない、ということであるから、]
ふしょうふめつ
不生不滅 [もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、]
ふくふじょう
不垢不浄 [よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、]
ふぞうふげん
不増不減 [増えることもなく、減ることもないのである。]
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寂聴さんの解説
万年雪をいだく山も下界に近い方では雪解け水が流れる。
やがて水は集まり川となり、ついには海に注ぐ。
海の水も蒸発をして天の昇り雲を作る。
雲は雨を降らせ時には雪を降らせ、ヒマラヤの雪を作り、黄河の水となる。
このように水は循環する。そして、地球の外に出ることもないし、地下にしみこんで
なくなっていくものでない。
つまり、水は減らないのである。もちろん増えることもない。
これは水にだけとどまらず、地球を構成する物質の元素はしばしの間、化学結合により
様子を変えることはあっても、本質的な量は不変である。
つまり、ものは増えも減りもしないのである。
動物の排泄物は汚れているというけれど、やがて微生物が分解して、無機物に
変えてくれる。本質的な元素は減りも増えもしないで。そして、無機質がまた別の
微生物や植物の働きで、動物の栄養となる物質に作りかえられ、
動物の餌となるのである。
長い目で見れば、汚れたままであるものはなく、汚れた状態はほんに一時のことで、
世の中には汚れたものも、清浄なものもないのだと言える。以上。
さて、
ぜしょほうくうそう
是諸法空相 [この諸々の法は、実体がない、ということであるから、]
と、ここでも寂聴さんは「空相」を「実体がない」と翻訳されていますが「空相」こそは「永遠の命であり心である 実体」なのです。
すなわち不生不滅、不垢不浄、不増不減なのは「空相というこの世界における大生命の実相」のことを言ったものです。
寂聴さんの説明のようなこの現象界の不生不滅、不垢不浄、不増不減ではないということですです。
ぜこくうちゅうむしき
是故空中無色 [したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、]
むじゅそうぎょうしき
無受想行識 [感覚も想うことも意志も認識もないし、]
むげんにびぜつしんい
無眼耳鼻舌身意 [眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、]
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法 [形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、]
むげんかいないしむいしきかい
無眼界乃至無意識界 [ものがないから見る世界もない。意識する世界もないのである。]
むむみょう
無無明 [我々の心に迷いがいっぱいという無明が無いとするなら、]
やくむむみょうじん
亦無無明尽 [無明を無くしつくすことになる。]
ないしむろうし
乃至無老死[無明がなくなれば、行もなくなり、識もなくなり、名色もなくなり、ついには老と死もなくなり]
やくむろうしじん
亦無老死尽 [老と死がつきることになる。]
むくしゅうめつどう
無苦集滅道 [苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。]
むちやくむとく
無知亦無得 [知ることもなければ、得ることもない。]
この中で「無」が付けられているものはすべて、色の世界に属する現象界のものに限っています。
確かに現象界の諸々のかたちあるものはすべて、「実体がないという意味で無」 なのです
いむしょとくこ
以無所得故 [かくて、得ることもないのだ。]
ぼだいさった
菩提薩垂 [菩薩になるため菩薩行を一生懸命つみ、]
えはんにゃはらみったこ
依般若波羅蜜多故 [般若の智慧を体得できたならば、]
しんむけいげ
心無圭礙 [すべての不安や畏れから解放されて、]
むけいげこ
無圭礙故 [心にこだわりを持たなくなるから、]
むうくふ
無有恐怖 [何ものも恐れなくなる。]
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想 [ものごとを逆さにみる誤った考え方から遠ざかり、]
くきょうねはん
究境涅槃 [永遠にしずかな境地に安住しているのである。]
さんぜしょぶつ
三世諸仏 [過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものた
ち”は]
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故 [知恵を完成することによっているので、]
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提 [この上なき悟りを得るのである。]
こち
故知 [したがって]
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多 [悟りに至る行は]
ぜだいじんしゅ
是大神呪 [大神呪であり、]
ぜだいみょうしゅ
是大明呪 [大明呪であり、]
ぜむじょうしゅ
是無上呪 [無上呪であり、]
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪 [比較するものがない最上の呪文なのである。]
のうじょいっさいく
能除一切苦 [これこそが、あらゆる苦しみを除き、]
しんじつふこ
真実不虚 [真実そのものなのである。]
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪 [そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。]
そくせつしゅわつ
即説呪曰 [すなわち次のような真言である。]
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝 [往け、往け、]
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝 [彼の岸へ。]
ぼじ
菩提 [いざともに渡らん、]
そわか
僧莎訶 [幸いなるかな。]
はんにゃしんぎょう
般若心経 [知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。]
このように「彼岸に渡るための般若波羅蜜多の呪」というものが述べられているのに、なぜ寂聴さんは「六波羅蜜」を「彼岸に渡るための般若波羅蜜多」どすえ変えたのかがわかりません。
やはり是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無無等々呪が、ほんとうは何を意味するのか、またなぜこれが「彼岸に至るための呪文」なのかが分からないからだろうと思われます。
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般若心経の「心」の間違った翻訳
最後に、これも、たぶん仏教界の御大(おんたい)、中村元さんからの受け売りだと思われますが「般若心経」の「心」を「精髄・エッセンス、肝心なもの」と翻訳している誤りです。
知る限りでは、すべての方々がそう訳しています。
ここでは「肝要なもの」と言っていますが、これも同じように「精髄」 の意味をもたせています。
中村元さん
これが誤りだというのです。
なぜかと言いますと「般若心経は天地宇宙の究極の実相である<空という彼岸>に至るための”心”の教え」というのが本当に正しい翻訳だからです。
すでに前回申し上げましたように、ここで言う心というのは、本当は、臨済宗の開祖、栄西禅師の「興禅護国論序」 にのっている「形なく境もなく広大無辺にして普遍なる宇宙大生命の玄々微妙なるこころ」や「色心不二」の「心」を指しており、その生命の実体である心の教え、という意味が「般若心経」という言葉の持つ「心」の意味だったのです。
決して「般若心経の精髄」などという曖昧で、漠としたものではありません。
栄西禅師
宇宙をも越える超宇宙大の「こころ」の教え、それが 般若心経なのです。
この宇宙を創造したのもこの意味の「こころ」だからです。
何度の申しあげますように、それが「空即是色」のほんとうの意味なのです。
次回もお楽しみに。