「空」がわかれば「般若心経」は世界最高の現世利益のお経です

ひろさちやさんと言う方が仏教関係の啓蒙や紹介では有名な方のようですので、 今回はその方の般若心経の解説を見てみたいと思います。

私の印象では、この先生の場合は、空というものを明らかにしない書き方で 逃げ切っているような印象を与える般若心経の解説です。

ですので、全体を読むと、結局はよくは分からないという印象を受ける般若心経の解説本です。

ではそのことを具体的にこの方の般若心経の現代語訳を見ながら、逐一、私見を述べさせていただきたいと思います。

ひろさちやさんの般若心経解説の問題点

まずひろさちやさんは次のように般若心経を解釈されています。

 < 観自在菩薩が、かつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。>

と、このように訳されています。 

まず、傍線の<ほとけの智慧の完成を実践されたとき>という訳のところですが、これでは実際、<ほとけの智慧の完成を実践するというのは>どういうことかが、さっぱり分かりません。

具体的にはどんな実践をしていたということなのでしょうか。 

最後まで読んでも分かりません。

そして次の<肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました>と訳されているのですが、ここでも「空」を ただ空というだけで「空」が 何なのかを明らかにせずに使っています。

ですから、要するにどういう意味なのかよくわからないままに進行していきます。

それにこれは前回の繰り返しになりますが、この世の何もかもが空であるとわかったら人間の苦悩がなくなってしまう、それはこだわりをなくすからだ、とこれもよくある説明ですけれども、仮にこの世諸行無常で、「何もない」という意味が空であるとして、それが分かったとしてもそれで悩みが消えますか、という疑問がどうしても残ります。

その後なんらかの説明があるのかと思えば、結局何にもなく、そのまんまで終わりです。

こういう般若心経の解説文がとても多いです。

この先生も同類です。

あきれるくらいに、これで平然としておられるようなんですね。 

次は

 <舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。

存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、

意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。> のように訳されています。

この部分でも同じです。

どうやら、この先生の言う「空」とは多くの人の翻訳のように「無」 の意味で使っているようです。

なぜかと言いますと、この後に「感じたり知った意欲したり判断する精神の働き」とこの先生が言っている「受想行識」は、般若心経本分の中では「受想行識」となっているからです。

ということは、この先生も「空=無」という風に考えておられるようで、これは私の勝手な想像ですがおそらくこの先生は「空=無」とはっきり言い切れない何かを感じておられるようで、その表れとして以上のような曖昧な表現にして逃げておられるような気が致します。
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「ほとけの智慧の完成」という意味不明な逃げ解説

次に移ります。

次は少し長くなりますが、最後までこの先生の解釈を転載してからコメントします。

< 舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。

そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。

そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。>

五蘊とは?

<大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。

大乗仏教の国々

それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。

それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。

真実にして虚妄ならざるものです。

そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。

すなわち、これが真言です。

「わかった、わかった、ほとけのこころ。

 すっかりわかった、ほとけのこころ。

 ほとけさま、ありがとう」

以上が、ひろさちやさんによる最後の部分の解釈です。

どんな印象をお持ちでしょうか。

私の第一印象は次の通りです。

最後に

「わかった、わかった、ほとけのこころ。

 すっかりわかった、ほとけのこころ。

ほとけさま、ありがとう」とありますが、「わかった、わかった ほとけのこころ」とは、わけのわからない「ほとけの智慧の完成の実践」とやらによって「この世は全て空」と分かって「こだわり」を捨てることができて 「すっかりわかった、ほとけのこころが」と言っているようです。 

こんなものが全仏教の教えの精髄と言われる「般若心経」なのか、と唖然、呆然とせざるを得ません。

なんのこっちゃ ?

これで 「あらゆる苦しみを取り除いてくれます(能除一切苦)」などとどうして言えるのか、私には不思議、不可解としか言いようがありません。

あまりのことにその実証(エビデンス)を求める気持ちにもなりません。
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ひろさちやさんによる「空とはなにか」のあいまいな答え

ついでに、ひろさちやさんによる「空とはなにか」の答えを示されているのでこれについても検討してみたいと思います。

<ある仏教学者の話です。その仏教学者の家が火事で焼けてしまったのです。

夏休みの直前に、隣家が失火して、彼の家は類焼に遭ったのです。

夏休みが終わって、新学期になって、彼は学生たちにこう語りました。

「今年の夏休みほど、私は”仏教”の勉強をさせてもらったことはなかった...」

最初、彼は隣家が憎くてならなかった。その隣家のせいで、彼は

たくさんの蔵書を失い、未発表の研究論文を灰にしたのだから、憎いのは当然です。

彼は、なんとか隣家に仕返しをすることを考えました。

だが、そのうちに、彼は気がつきました。自分は仏教学者である。その仏教学者が

仕返しを考えるなんて、やはりおかしい。それじゃあ、何のために仏教を勉強

してきたかわからないのではないか。

そこで彼は、自分は隣家によって大事な蔵書や研究論文を、「焼かれた」と考えて

いたが、それだから憎しみが消えないのだ。それ故、蔵書や研究論文を自分で、

「焼いた」のだと考えようとしました。そうすると、憎しみが消えるのだろう

と思ったのです。でも、自分で焼いたわけでないものを、自分で焼いたことに

するのは無理なことでした。

そのとき、彼ははっと気がついた。「焼かれた」でもない、「焼いた」でもない、

ただ、「焼けた」と思えばいいのだ、ということに。そして、彼は浄土真宗の

人でしたから、静かに「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えていました。

そうしているうちに、自然と火事のことをあきらめることができたといいます。

これが、『般若心経』でいう、「空」だと思います。「空」というのは、

「こだわるな!」ということです。「焼かれた」と見るのもこだわりであれば、

「焼いた」と見るのもこだわりですね。こだわりのない「空」のこころで見れば、

家はただ「焼けた」のです.>

以上がひろさちやさんの引用文です。

この空の捉え方について皆さんならどう考えられますか。

納得されましたですか。

なるほどと頷かれましたですか。

これが「生死解脱」を遂げられたという仏陀の悟りだと言えますか?

私の感想を言わせていただければ「ノー」の一言ですね。

「焼かれた」と見るのも「焼いた」と見るのもこだわりですが、「焼けた」とそれを客観的事象として観じたとしても、それでこだわりが果たして消えるでしょうか。

その仏教学者のように、或いは時間の経過とともに「こだわり」が消える人もいるかもしれませんが、大抵は消えないと思います。

そう簡単には人間の自我というものはゆうことを聞いてくれるとは思えません。

わかっちゃいるけどやめられない、という自我のさがで、こだわりが消えるということは考えられません。

こだらなくても良いとわかっても、こだわらざるを得ないのが人の心理です。

不治の病と宣告されて、これを「空」と見てこだわりを捨てることなどできますか。

明日死ぬと言われてそれを「空」と見て泰然自若として死んで行ける人など百万人に何人いるでしょうか。 
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問題の解決は「空とは何かを究明すること」にある

問題の解決は、「空をこだわらない」と解釈することではなく、「空とは何かを究明すること」だと思います。

それが分かって初めて「こだわりがなくなる」という境地が見えてくるのです。

「空」とは「色」を生み出した大元(空即是色) ですから、目に見える命を生み出した目に見えない”いのち”のことであり 、その空を悟ることを「彼岸に至る」というのであり、それはぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてーというという「呪」(言葉+祝<予祝>+繰り返し)によって何でも実現することができる、という現世利益を教えているのが実は般若心経なのです 。 

そしてこの大神呪によって「絶対界という元来た空の彼岸」に至れば生老病死の一切の苦しみを超えることができる(度一切苦厄)という仏説、すなわちブッダの教えなのです。 

こうして初めて「生死を超えたお釈迦様の悟り」という意味がよく分かると思います。 

そしてこれを達成するのが、栄西禅師の言われた”広大無辺なこころ” なので、その「心経(”こころ”の教え)」だというのです。

ですので、元東大教授の中村元先生をはじめ、ほとんどの般若心経解説者が言われているような、<般若心経の「心」>とは「精髄」というような意味ではありません。

それは全くの誤訳です。 

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