「人を呪わば穴二つ」という事実の裏にある真実

前回の「記事の説明」の所で、 幸運な生き方求めている人は、当然ながらとても多いですが、この問題へのアプローチとして、よく「徳を積むこと」を強調する識者が大昔から、例えば中国の「陰しつ録(いんしつろく)」を始め多いと思います。

それは「どういう理由からそういうことが言えるのか」についてこれを探求してみます、と申し上げました。

今回はこの「なぜ積善、積徳なのか」を考えます。

積善、積徳をはばむ「自我の強さ」

凡人の私達でも小さな積善 である、例えば人にできるだけ親切をするとかゴミ拾いをするとか、ということを心がけたいという気持ちはありますが、しかし、なかなか長続きして実行できない最大の理由というのは、やはり「自分が一番可愛い」という一言で言えば、「自我の利己的な心」がどうしてもそういう世界にとどまるように仕向けてくるからです。

こうした利己的な自我の想いというものがいかに我々の心を牛耳(ぎゅうじ)っているか、ということを示す一例として、例えば夏目漱石の小説「こころ」が思い浮かびます。
スポンサーリンク




夏目漱石の小説「こころ」そのあらすじはー

「学生である私が鎌倉の海岸で出会った「先生」は、いつもどこか寂しげに見えた。私は、その男性のことを「先生」と呼んでいました。

自分の父親の見舞いで故郷に帰省していた私は、先生から届いた自殺を思わせる手紙を抱えて東京行きの汽車に乗り込みます。

その手紙には、先生の悲しい過去の告白が綴られていました。その昔、信頼していた叔父に裏切られ財産をかすめ取られ奪われた地獄のような日々があったということです。そして自分も同じように親友を裏切ったことが記されていました。

夏目漱石

その内容とは、先生が学生時代、下宿の主(あるじ)である未亡人のお嬢さん(後の先生の奥さん)に、ひそかに恋心を抱いていました。

しかし、ある日、先生の親友であり同居人となったKが先生に対して、「お嬢さんに恋をしている」と告白してきたのです。

そこで、先生はそんな純粋無垢なKに対して、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」というような一言を浴びせながら、裏ではこっそり未亡人に対し、お嬢さんとの結婚を許諾してくれる工作をしていたのです。その気まずさを覚えながらも、先生はKにこのことを言えないままでいました。そして先生より先に、未亡人の口から、先生とお嬢さんの結婚を知らされたKは絶望のあまり自殺してしまうのです。

 Kを裏切り、自殺へと追い込んだ、という先生の自責の念は、ついには先生本人を自殺の道へと駆り立てて行き、ついには明治天皇の崩御(ほうぎょ、天皇の死)に合わせ自殺するという結末を迎えます。

人間の持つ利己の心がいかに人を狂わせるか、 利己主義を超える道を生涯のテーマとして模索していた漱石の傑作です。

漱石は晩年「天に則(のっと)り私を去る」という意味の「則天去私(そくてんきょし)」の理想を掲げていましたがその境地に至ったかどうかは定かではありません。
スポンサーリンク




人の悩みの根源は「肉体即我」の自己像から生まれる

人はなぜ、どうしても、こうも「わかっちゃいるけどやめられない」利己的な行動に走ってしまうのでしょうか。

自分の利己的な行動に対して内心の声が自分を咎めても、どうしても自分可愛さから、これを脱することができない、という状態が多くのわたしたちの現状だと思います。 

その第一の理由ですが、私の考えでは、やはり自分というものをこの「肉体の小さな自分を自分だと考えている」その自己像から来るのだと思います。

つまり私たちの青少年時代の自我形成の時に出来上がった「唯物肉体論的自己像」にその第一の原因があると考えます。 

でも本当は人の”こころ”とはそんなものではないはずです。

ほとんどの人が抱いている唯物肉体論的自己像をはるかに超える威大な存在であるということに私が気づいたきっかけは、心というものが従来の唯物論的自己像の視点に立った見解である「脳髄の一生理現象」ではなかった、ということが次第に分かってきたところから少しずつその広がりが見えてきました。 

100年前の量子力学や超心理学の世界から、また仏教の華厳経や般若心経が教える”心”の世界から、心には気のエネルギーのように、カタチがなく、したがって区切りや境というものがな いという事実を受け入れてくると 、今までの自我の塊という自覚により仕切られていた狭く浅い心の世界から抜け出すことができて、やがて「”いのち”本来の姿である」「一つ”いのち”の世界」を少しずつではありますが自覚できるようになって、これも少しずつ利己的な世界から自由になっていくことができるようになりましした。 
スポンサーリンク




「人を呪わば穴二つ」という真実が意味するもの

それから「人を呪わば穴二つ」ということわざがありますが、 心とエネルギーとの関係から言ってそれは本当のことである、と分かるようになったことが大きな理由の一つでもあります。

人を陥れる、相手をくそみそに言う、怒る、憎しみ、恨む心でいると、その相手にも通じてその人のエネルギーを奪うと同時に自分もそういう状態になる、ということを実験を通して知るに至ったからです。

そのことは、つまり心は他の人とも、他のいかなるものとも一つにどうやら繋がっている、と思う他はない事実を私たちに突きつけています。

言い換えますと、これは <私はあなた、あなたは私の世界の一つの心といのちの世界>です。

それは「一つ”いのち”の世界」なのです。

そして同時に「一つ”心”の世界」でもあるのです。

心は”いのち”の 一つの機能として”いのち”と共に働いているからです。

一ついのちの世界

なぜ積善、積徳なのか

どうやらここから積善、積徳の道も開けて見えてきます。

その道理が見えてくるのです。 

 また、積善の家に余慶(よけい)あり、積悪の家に余殃(よおう)あり、という言葉もあります。

その意味は善行を積み重ねた家や人には必ず思いがけない良いことが起こり幸せになる、しかし積悪の家や人には思いがけない悪いことが起こり不幸になる、といった意味です。

どうやら肉体我に止まる小さな心から、心には形がなく区切りがなく境がなく、 しかも欲の心や見栄の心やまた欲や見栄の為の学びの心 など、苦しみを伴う自我の心の世界から、さらに進んで「一つ心の世界・一ついのちの世界」に目覚めてその大きな世界に入っていくと、自我の境界線が少しずつではありますが開いて世界や宇宙と一つになることができるようになります。

すると、そうして心が世界や宇宙と繋がってくると、元々働いていた自然の働きがその人自身にも直接的に及ぶようになり、今まであまり出ることがなかった直感や知恵も頻繁に出てくるようになるようです。

それを実行に移せば「すべてがうまくいっている」軌道に乗ることができるのではないか、ということです。
スポンサーリンク




すべてが上手くいく世界とは

以上で、かつて人を介して与えられた啓示の意味が私はよくわかるようになりました。

その啓示とは

「すべてはうまくいっています。

        早く<本当の自分>を知ろう。

              実はあなたはいません。 」というものでした。

すべてはうまくいっています、ということはどんなに紆余曲折の失敗を重ねても最終的には良い方向へと軌道に乗っている、というのがひとつの意味です。

もう一つは「早く本当の自分、すなわち、一つ心の自分・一つ命の自分」というものを自覚すれば、それだけいっそう早く「すべてはうまくいっている」状態になる、という意味でもあります。

そして本当の自分を悟れたら、今まで思っていた小さな自分という自分は仮の自分であるということがよく理解できるということです 。

つまり仏教などで いう「同行二人」の本当の意味です。

一般には「弘法大師と自分」と解釈されていますが、それでもいいですが、「真我と自我」というのが本当のところです。

もっと正確に言えば「真我に生きる自我」 と言ったらよいでしょうか。

ここまで来るとどうやら「如意自在(にょいじざい、思うことが向こうからやってくるような)の生活」という境地も開けてくるように思います。

「神仏に向かってあれこれを願う」世界から、「必要なものはいちいちあれこれ願わなくても向こうからやってくる」 世界です。

これがかつて  イエスキリストが「何を食べ何を飲もうか、あるいは何を着るかと言って思い悩むな。これらは、皆異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父はこれらのものが皆あなた方に必要なことをご存知である。何よりもまず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば以上のものはみなあなたがたに加えられ与えられるのだ」といったことです。

「異邦人が切に求めているもの」とは、「神仏に向かってあれこれを願うこと」ということです。

また、「神の国と神の義とを求めなさい」とは、「自分の中の神の国(真我)に生きる自分」と成って「一つ心の世界・一ついのちの世界」すなわち「己を愛するように人を愛する世界」

に生きなさい、ということです。

このことを「All things shall  be  yours  without  asking.(全てのものが、特別に求めなくてもあなたに与えらえるであろう、の意)という言葉をアメリカ映画の「偉大な生涯の物語(The greatest story ever told)」の中で俳優、マックス・フォン・シドーが扮するイエス・キリストに言わせています。

その通りであろうと思います。

それは、言い換えれば、結局は「積善・積徳への道」であるということです。

これで全てが繋がりました。

書く方もそうですが、ここまで読んで下さった皆さも大変お疲れになられたと思います。

お疲れ様でした。

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク