般若心経は「一切の苦しみをよく取り除く」ことを二回も教えているーその1-

般若心経は人々の「一切の苦しみをよく取り除く」ことを教えているのに、しかもこれを二回もその中で強調しているのに、それを「空を説く六百巻からなる<大般若経>のエッセンス」だと多くの学者や僧侶の方々は説いて、般若心経の本来の目的から目をそらしています。

この般若心経の本来の目的は「大般若経」のエッセンスなどではなく「能除一切苦」を教えることにあります。

今回はその話をします。

般若心経全文

まずはその般若心経の全文を掲載します。 

かん じ ざい ぼ さつ ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ しょう けん ご うん かい くう 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空  

ど いっ さい く やく しゃ り し しき ふ い くう くう ふ い しき しき そく ぜ くう 

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空  

くう そく ぜ しき じゅ そう ぎょう しき やく ぶ にょ ぜ しゃ り し ぜ しょ ほう くう そう 

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相  

ふ しょう ふ めつ ふ く ふ じょう ふ ぞう ふ げん ぜ こ くう ちゅう 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中  

む しき む じゅ そう ぎょう しき む げん に び ぜっ しん い む しき しょ 

う こう み しょく ほう 

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法  

む げん かい ない し む い しき かい む む みょう やく む む みょう じん 

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽  

ない し む ろう し やく む ろう し じん む く しゅう めつ どう む ち やく む とく 

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得  

い む しょ とく こ ぼ だい さつ た え はん にゃ は ら みっ た こ 

以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故  

しん む けい げ む けい げ こ む う く ふ おん り いっ さい てん どう む そう 

心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想  

くう ぎょう ね はん さん ぜ しょ ぶつ え はん にゃ は ら みっ た こ 

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故  

とく あの く た ら さん みゃく さん ぼ だい こ ち はん にゃ は ら みっ た 

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多  

ぜ だい じん しゅ ぜ だい みょう しゅ ぜ む じょう しゅ ぜ む とう どう しゅ 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪  

のう じょ いっ さい く しん じつ ふ こ こ せつ はん にゃ は ら みっ た しゅ 

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪  

そく せつ しゅ わっ ぎゃ てい ぎゃ てい は ら ぎゃ てい は ら そう ぎゃ てい 

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦  

ぼ じ そ わ か はん にゃ しん ぎょう 

菩提薩婆訶 般若心経  
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般若心経は膨大な「大般若経」のエッセンスではない

 般若心経 は学会では一般には、膨大な量の「空」について論じた「大般若経」の 精髄ないしそのエッセンスだ、というのが一般的な定説になっています。

元東大教授の仏教学の権威とされる中村元先生をはじめ多くの方々がこのような考え方をしています。

しかし、これは本当のことでしょうか。

これから述べることは、「それは本当ではない」という論証です。

「大般若経」は約600巻以上もある膨大な仏教経典です。

そこには空とは何か、という空についての探究と言いますか、とにかく空についての膨大な教えが記されています。

それはその通りです。

一方、般若心経の眼目、その目指す目的は一体何であるのか、ということをよくよく考えると、般若心経はその膨大な「大般若経」のエッセンスなどではないということがわかります。

どういうことか、と言いますと、般若心経が説こうとしている最も大事なことは 、全人類が心の底から渇望してやまない、喉から手が出るほど欲しい、人生上のありとあらゆる「苦しみからの解放」であります。

病気の苦しみ、家庭内での苦しみ、貧乏の苦しみ、対人関係の苦しみなどを始め、その他いろんな苦しみが人にはありますが、とにかく人々が心の底で望むことはこういう苦しみからの解放です。

確かに般若心経には、大般若経のような「空」についての深遠な 哲学が展開されてはいます。

しかし本当の目的は人々が心の底から請い求める「度一切苦厄(どいっさいく)」すなわち先ほど申し上げた様々な苦しみ・災厄から解放です。

そして、般若心経の終わりの方に、わざわざもう1回これと似た文言がダメ押しをするかのように書かれているのです。

それが「能除一切苦(のうじょいっさいく)」というものです。

一切の苦しみをよく取り除く、です。

その一切という表現が2度も出てくるのですよ。

一切とは何ですか。

ありとあらゆる全ての苦しみということです。

ある苦しみに限定してはいないということです。

これが般若心経が二度も断言し保証していることなのです。

しかしさすがの学者の皆様方もそんなことは信じられなかったのでしょうね。

なんと大げさな表現かと思ったのかもしれません。

そしてこれが古来からの謎だと言われて、考えれば考えるほど分からない、と言われてきた理由です。 

それもそのはず彼ら学者は「思議ばかりして一切行ずることをしない輩(やから)」だからです。

般若心経は読経したり写経したりすることではなく、「大神呪を行ずること」でその真価を発揮することを教えているからです。

それを「行深般若波羅蜜多」と般若心経ははっきりと教えています。

「般若波羅密多」とは「呪(じゅ)」である、と般若心経の中で断言しております。

それは是大神呪、是大明呪、最高の呪、くらべるものがない呪なのだ、と言っています。

その呪の内容を「成就している、成就している、成就した」と繰り返しただ唱えることだ、と教えているのです。

そもそもこの呪をくりかえし唱えるのは、すなわち「行深般若波羅蜜多」は何のためかといえば、この「色という現象世界」に「カタチにない空の世界に本来備わっている”無条件の喜び”」を実現するために行うのです。

そうしてはじめて「能除一切苦」ができるからです。

その時は、「呪」ですから、学者のように「思議すること(かんがえる)」ことは止めなければいかんのです。

学者たちの最も苦手で不得意とするところです。

観自在菩薩は、何度も何度も「行深般若波羅蜜多」をしていたからこそ、「 照見五蘊皆空  」することができて、「度一切苦厄」することができたのです。

詳しいことは後述します。

般若心経には、たしかに大般若経の「空の世界観」が展開されているのはよくわかりますが、それが人々の苦しみを解放するための前提として説かれている、 とは学者には思いも及ばないことのようです。

それはひとえに学者たちは般若心経の肝心かなめの「行深般若波羅蜜多」を実行しようとはしないからです。

実行しなければ般若心経の真意はわかりようもありません。

なので、ほんとうは般若心経は「空を説く大般若経のエッセンス」などにとどまるものではなかったということなのです。

目的はそこにあるのではなく、「度一切苦厄」に あるからです。

その証拠の一つ、それは大般若経には「度一切苦厄」そして「能除一切苦」の文言が一言も、一言もですよ、ないのです。

あるいはこれに似たような苦しみからの解放を説いているところは全く大般若経にはありません。

般若心経が人々に最も愛されたお経の第一の理由とは

仏教がわが国に伝来してからの長い歴史の中で、般若心経を熱心に読誦したり写経をしてきたその本当の理由はそこに何らかのご利益の霊験にあやかろうとしたからではないでしょうか。

なぜならこのお経の中には何度も申し上げますように、「一切の苦しみや災厄を解決する」とか「よく一切の苦しみを取り除く」という意味の文言が二回も出てくるからです。

とにかく、これを唱えたり書いたりすることが流行った背景には、やはりこの二つの表現にある人々が渇望してやまない「苦しみからの解放」の文言があるからではないでしょうか。

これを「ただの空の大般若経のダイジェスト版(縮小版)と考えるまことに悪しき意味の学問にして貶(おとし)めてしまって「空理空論」にしたのでは、般若心経が目指す「人々 の苦しみを救う」目的が完全にそらされ覆い隠されてしまいます。

この「般若心経の真理」が過去1300年以上もの長い間、理解されず解き明かされずに来たということです。

ほとんどの人々にとっては、「空理を悟る」ことよりも、現実の人生の苦しみを解決する功徳をこそ求めるという切なる願いが その写経の背景にあります。

しかもその「能除一切苦」は「真実不虚(しんじつふこ)」すなわち「決して嘘ではありません」とまで付け加えて保証しているのです。

保証書付きなのです。

こういうことを全く無視して「般若心経は大般若経のエッセンスである」などと言って平然としておられる、国民の税金で糊口(ここう、食べていける)をしのいでおられる国立大学の教授とは一体どういう人種なのか、私のような頭の悪い人種にはどうにも理解不能です。 
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「能除一切苦」こそが心経の真骨頂(しんこっちょう、真価)

では次に、その「度一切苦厄」、「能除一切苦」はどのようにしてなされるのか、その方法を、実は、その中で2回も、般若心経は教えています。

その一つは 次の文言の中に記されています。

その文言の一つとは、 

「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)

人間は色(しき/身体や目に見える世界)と、受(じゅ/感受)、想(そう/記憶)、行(ぎょう/この想念を何度も繰り返す)、識(しき/認識)という人の心の五つの力で構成されているが、そこに実体はないと見抜き、度一切苦厄(どいっさいくやく)すべての苦しみから抜け出したのだ」という箇所です。 

「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」とありますが、この箇所は、実は「色・受・想・行・識」という五つのかたまりの循環によって 色という現象世界は創造されているというこの世の「唯心所現」の創造の原理を表現する、極めて重要な箇所です。
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「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とは「引き寄せの法則」のこと

どういうことかと言いますと、人は色の現象世界を見て、これを感受し、思いを巡らし、しかもそれを何度も見る繰り返しの行を行いながら、そこでしっかり認識させると、そういう心を通してそれが現実の世界に映されていくようになっている、その現象界の心による創造原理が示されているのです。

そして厄介なことに、ほとんどの人がこの現象界創造の原理を知らずに、無意識のうちにこれら一連のことを常に行っている、という悲しい現実があります。

巷間(こうかん、世間)よく耳にする「引き寄せの法則」とはこの現象界の創造原理のことを言っているのです。

この世はあくまで「映し世」として存在しているからです。

そしてこの世界を成り立たせている光源こそは「空」なの だというの が 、実は般若心経の教えなのです。

空即是色、その空から色が生まれたということです。

空を光源として、そして心のフィルムを通して色と言う現象世界をスクリーン化していきます。

繰り返して言います。

この世は色➡受➡想➡行や➡識という心の循環システムによって空を光源として現実が出来上がっているということ。

すなわち五蘊のうちの色(しき)はスクリーン、残りの受想行識が心というフィルムになって一切の現象が起こっています。

これが「五蘊皆空」と言うこの世を作り上げている創造の奥義の文言なのです。

これを悟った観自在菩薩は  とうとう「 度一切苦厄」することができる秘密を知ることができたのです。

ほとんどの般若心経本の解説に書いてあるような、何も五蘊皆空、すなわち「この世は一切合切、空で、むなしく実体のないものである」と悟って「捉われ」がなくなって「度一切苦厄」することができたというわけではありません。

そんな浅い理解で、そんな悟りで「度一切苦厄」など、到底できるものではありません。

そんなことで病気が快方に向かいますか、そんなことで家庭苦の悩みが消えますか、そんなことでお金が循環する豊かな生活ができますか、

できませんよね。

そんなことではどんな人生苦をも解決することなどできないのです。。

そんな悟りではほとんど何もできない、と言っても良いでしょう。

せいぜい「武士は食わねど高楊枝」の無理をする浅い人生観ができあがるだけです。 

そのための具体的な、意識的な実践方法が後段に出てくる「ギャーティ、ギャーティ、ハラギャーティ、ハラソーギャ―ティ」の大明呪であり、大神呪だったのです。

実は、これが「能除一切苦」することができる秘密の方法だったのです。

ここの最も大事な「呪」のところが、また、「大般若経」には一切ない、ということが分かれば、般若心経が大般若経の「空論のエッセンス」などとは到底言えないということがよく分かります。

これについては次回ということで。

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