般若心経は「一切の苦しみをよく取り除く」ことを二回も教えているーその2-

前回は、般若心経の教えは「一切の人々の苦しみを解放すること」にあるのに、これを「般若心経は空の教えのエッセンス」とだ捉え、すり替える学者の皆さんは「思議(かんがえる)」ことばかりして、「行深般若波羅密多」の行である「呪の行」を一度も真剣に実行したことがないので、それでは永遠に「度一切苦」を本当に体験することはできないし、したがって本当には「般若心経」のとてつもないその「度一切苦」の素晴らしさもその効果も理解することは出来るはずもない、ということを申し上げました。

では、このことはほんとうに本当なのかという論証を今回も引き続き探求してみたいと思います。 

その学界の定説はなぜ出来あがってしまったのか

それでは般若心経が大般若経の精髄である、要約したエッセンスである 、という学会の定説 がどうして出来上がってしまったのか、その原因と言いますか、その背景と言いますか、これを探ってみたいと思います。

その第一は、結論を言いますと、どうやら、まず 学者たちのその学説は般若心経と大般若 経 とを見比べて両方に共通した同じ記述だけを取り上げているということです。

そして最も重要なこと、また決定的なことは、学者たちが、般若心経のみにあって大般若経にはないものを一切、一切ですよ、ひどいですね、全く無視してきた、ということです。

しかもその般若心経だけにあるその記述こそが般若心経の中では最も重要で不可欠な箇所なのです。

それは何かと言いますと、

1、「度一切苦厄」 及び「能除一切苦」 という般若心経にとっては最大の文言への無視です。

2、では、もう一つは何かと言いますと、これまた般若心経にとっては欠くべからざる「度一切苦厄」するために不可欠の「行深般若波羅蜜多」の呪文 「ギャティ、ギャティ、ハラギャティ」の行法についての軽視ないし無視です。

以上二つの般若心経の命とも言える肝心要の箇所を全く無視ないし軽視をしてきたことによって「般若心経は大般若経の精髄である」というまことに慚愧に堪えない学説を1300年もの以上にわたって 「頭だけはいいが、行ずることをしない学者たち」が守り続け、未だにこれを守っているということになります。
スポンサーリンク




般若心経の素晴らしさはどこにあるか

般若心経の素晴らしさはどこにあるかといえば、まずその第一は、般若心経には大般若経には1回も登場してこない衆生済度(しゅじょうさいど、人々を救うために出てこられた)の観自在菩薩が登場しているということ 、それと大般若経を含む般若経全般には一切ない「ギャーテー ギャーテー ハラギャテイー」の大明呪 を明記して人々の苦しみを取り除こうとしているところにあります。

これらの記述は大般若経には一切ありません。

それもそのはずで、大般若経は一般大衆を相手にした経典ではなく、かなり仏道修行に通じたかなり悟れる人向けに説法されたブッダの言葉が記されているからです。

観自在菩薩

一方、般若心経はこうした悟りの深い方々ではなく、信じることも考えることも幼稚なわれわれ一般大衆の苦しみをまず取り除いてあげたい、という大慈大悲の観世音大菩薩の意図のもとに編み出された経典だと言われています。

つまり、般若心経は現実の人々の病気とか家庭苦とかの悩み苦しみを救うための御利益のお経なのです。

かといって写経するとか読経するとかということで解決するわけではありません。 

何度も申し上げますように、だからこそ般若心経には度一切苦厄が出てきて、そのための呪文の行である 「行深般若波羅蜜多」という文言が出てくるわけです。

しかもこれを衆生済度を旨とする大慈大悲の観音様が行なって仏陀がその通りであると認めた経典という形をとっています。

それが「仏説」という言葉の意味です。 

これでなぜ「度一切苦厄」とか「能除一切苦」という文言が出てくるのかその理由がよく分かるわけです。

これを汲み取れなかったこれまでの学会の学説とは一体何だったのか。

これに疑問を挟むことなく、1300年以上も続いているというのも実に間の抜けた、悲しい話であります。

こういう情けない仏教事情によって、日本だけではなくインドでも中国でもまことに情けない仏教界となっ て、せいぜい葬式仏教と観光の為の見世物となり果て、それでやっと糊口をしのいでいる、という有様です。 

少なくとも仏教そのものは現在、明らかに形骸化していることだけは確かなことです。 
スポンサーリンク




般若心経になぜ観世音菩薩が出てくるのか

それは観世音菩薩の役目 が「衆生済度(しゅじょうさいど、人々の悩みを救う)という「抜苦与楽」にあるからです。

これによって<度一切苦厄・能除一切苦> を約束する般若心経になぜ観世音菩薩が登場するのかがよくわかるのです。

抜苦与楽の実践である慈悲の実践、これこそが観世音大菩薩の「度一切苦厄」 を標榜する理由なのです。

決して般若心経は大般若経の「 空理」のエッセンスでも要約版でもないということです。

 <能除一切苦>できなければ般若心経のなど不要と言っても良いでしょう。

「仏説」とそのタイトルにあるように、このことを一番嘆かれているのはブッタその人でありましょう。
スポンサーリンク




観世音菩薩はどのようにして「度一切苦厄」することが出来たか

五蘊皆空(ごうんかいくう)度一切苦厄(どいっさいかいくう)することが出来たという観世音菩薩のその秘法とは何なのか、皆さんが一番関心を持たれるところを探求してみます。

まず<五蘊皆空、度一切苦厄>という文言、この中には大事な三つの真理が秘められています。

その三つとはなにか。

1, 五蘊(色)は空により出来上がっているということ。

  これは、別のところで色即是空という言い方もされています。

2, ここが一番肝心なことかもしれませんが、空とは何もないということではありません。

   逆に空とは「目には見えませんが別次元のエネルギーの大元」という言い方をここで

   はしておきます。

  目に見えないという点では「何もない」という言い方も間違いとはいえません。

  しかしまるで何もない、ということではないのです。

  この肝心なことを正確に教えてくれた学者、僧の方を私は寡聞にして知りません。

 しかしこのことは「空即是色」ということを考えてみれば簡単に理解できることではあります。だって我々が見ている目に見える世界の現象世界が「色の世界」ですから、これを生み出したのは空だと言っているのですから、「空が全く何もない」と考えることはありえないことです。本当に何もないところから色の現象世界が生まれてくるわけがありません。

逆に、何もないどころか、「何でもある」空の世界があってはじめて色の、大宇宙、大自然の多種多様な現象世界が現れたのですから、いろんなものが多様に潜在的に 「空の世界」に無限にあるということです 。

実に「何でもある」という世界、それが「空の世界」なのです。 

3,あるいはこの三つ目が一番理解するのが難しいところかもしれませんが、我々が心と言っているもののその実相の世界とは「いのちの世界の 真我」でもあり、そこが実は「空の世界」でもあるということです。

我々がご縁があってオギャーとこの世に生まれて きた その三次元の自分を、普通は「自分」と理解していますが、 それは自分の全てではありません。

それは肉体我、自我というものです。

その背後に「空とも言える宇宙の全体と繋がっている真我」の次元があります。

そして、観自在菩薩が「五蘊皆空」 、五蘊、すなわち「色・受・想・行・識」の肉体とその意識がそのまま「空の世界」ということですから、 空の世界のどこに焦点を合わせるか、心の中には、自我レベルの苦しみ・欲・見栄・ 学びなどの世界から”無条件の喜び”という真我レベルの世界まであります。

秘訣は、どこに焦点を合わせるかで<度一切苦厄>が決まります。 

何に焦点を合わすかで何が出てくるのかが決まる、これを世に「引き寄せの法則」 と言っています。

例えば病気になったとします。

するとどうでしょうか、人はとかく病気のこと、病気の方にばかり自然と「ギャーテーギャーテーハラギャーテ-」と病気のことを念呪していないでしょうか。

だから病気がなかなか治らないという秘密です。

しかし、この世は「諸行無常」、どんな環境、どんな境遇であっても必ず変化します。

変化こそがこの世界の本質です。

必ず「変化する」のですから、「治る、治る、必ず治る」と「ギャーテーギャーテーハラギャーテ-」の呪を実行して健康に集中すればその病気から解放される度合いが、はるかに早くなります。

般若心経の彼岸達成、言い換えれば、目標達成、願望成就の秘訣はこの「ギャーテーギャーテーハラギャーテ-」の大神呪の中にあるのです。

五蘊皆空(ごうんかいくう)度一切苦厄(どいっさいかいくう)することが出来たという観世音菩薩のその秘法とは、実にこの「是大神呪」にあります。

では何故「是大神呪」がその効力を発揮するのか?

行「呪」とは「点滴が石を穿(うがつ、掘る)ように、祈りを込めて言葉を只管(ひたすら)繰り返すこと」です。

しかし言葉だけにそんな力があるか、という疑問も起こりますが、実際には、言葉だけではなくて、その祈る言葉に感応する真我という”こころ”の力がバックにあるからだと思います。

真我は空の世界の”こころ”です。

自我は色の世界の”こころ”です。

むろん「心は一つ」ですが、階層がちがいます。

であるので、単に自分の利だけを計る目標よりも「周囲との調和を図り周囲 のためになる大きな志」という目標を「「ギャーテー ギャーテー ハラギャテー」として念呪するほうが「真我」のバックアップが得られやすいので「自分だけの目標」よりは遙かに成就しやすいということになります。 

なぜなら「周囲との調和を図り周囲のためにもなる動きというのは”目に見えない大自然の空のこころ”」だからです。 

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク