般若心経は「一切の苦しみをよく取り除く」ことを二回も教えているーその3-

今回は般若心経のタイトルそのものから 、般若心経そのものを解明していきたいと思います。

そのタイトルは「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃしんぎょう)」ですが、ここでもほとんどの学者は「心」のところを摩訶般若波羅蜜多の「精髄、エッセンス」の意味に解釈しています。

今回は、これがまたもや間違いである、ということを今度はこのタイトルという角度から探ってみたいと思います。

「摩訶般若波羅蜜多心経」というタイトルの深い意味

「摩訶般若波羅蜜多心経」というタイトル全体の本当の意味とは何か、を 解読することからはじめたいと思います。

このタイトルを結論から正しく伝えると次のようになります。

摩訶般若波羅蜜多心経とは、「全智にして全能な、人々を彼岸(「空、究極の悟り」、または到達したい目標という彼岸)」に渡してあげることができる”心の教え”」という意味なのです。 

これは皆さんが未だかつて聞いたことも、読んだこともない解釈だと思います。

大抵の解説書ではその「心」を、般若心経のエッセンス、要点と解釈しているからです。

従来のものはすべてと言っていいくらい、どこまでも心を軽く見ています。

ところがこの心こそが心すべき実に大問題なのです。
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心には特定のカタチがない

心といえば、普通はその人の意識とか意思とかをすぐに思いつくと思いますが 、ここで言う心とはそういう肉体自我についての表面的な心ではないのです。

まず心とは何か、ということを書き出すと、それだけで大変に膨大な量になる解説が必要かと思いますので、ここでは 近代の心理学的な言い方で言う深層の心、あるいは潜在意識乃至超意識と言ったら少しだけそこに近づけた、と言えるかもしれません。

ところで、その心ですが、そのものはそう簡単に自分の意思で開けられるものではありません。

実は、心そのものには、特定のカタチがなく、従って 境もなく仕切りもありません。

そして「心には特定のカタチがない、従って、ここからここまでと言う仕切りがない、境がない」と言う認識が実はとても重要です。

だから、心の本体は、意識や意思の及ばないところに実在している、ということになります。

ですから、心そのものはイメージさえもできないような巨大な実体なのだ、ということになります。

ここで是非とも触れておかなければならないこと、それは、心と同じようにカタチがないがままにある実体として、「いのち」というものがあります。

存在の原因としての「いのち」がまずあって、 この現象世界の存在の在り方を創造し決定する心と共に、この両者は不可分の関係にあります。

そして、この「いのちそのもの」のことを、実は、般若心経では「空」 と言っている、これも初耳だと思いますが、これもやがてわかります。

「空」とは”あるけれども見えない”宇宙の実体”のことです。

般若心経では「五蘊(色があって受・想・行・識)」と、 その五蘊という心の循環によって 物事が創造され決定されていくという意味ですが、その五蘊全体がそのまま「空」であると悟ることによって、観自在菩薩は「度一切苦厄出来た、すなわち、ありとあらゆる苦しみ、災いを取り除くことができた」という要となる「五蘊皆空、度一切苦厄」という表現が出てきます 
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タイトルである「摩訶般若波羅蜜多心経」の解読

ここで改めて、もう一度、般若心経のタイトルである「摩訶般若波羅蜜多心経」という言葉を 細かく解説してみます。

まず「摩訶(まか)」とは何か、ということですが、それは元々のサンスクリット語の 「マハー」という言葉の音写で、一般にはただ「大きいとか偉大な」とか、いう解釈で済ましていますが、本当は「全能」という意味です。

次の「般若」 はプラジナー の漢訳です。

「無分別智」とも訳されて人智では分からない不可思議、不可説の智恵ということです。

そこから全智という意味になります。

「摩訶般若」と併せて「神のような全知全能」の意味になるのです。

次の「波羅密多(空という悟り、あるいはターゲット、目標・目的)に到る」ですので、「摩訶般若波羅蜜多」までで、「彼岸ないし目標に至る全知全能の」という意味になるのです。

ではこの形容詞はどこにかかっていくのでしょうか?

言うまでもなく、その後の「心」にかかります。

そして「経」とは「教え」という意味です。

悟りという彼岸、あるいはどんな目的・目標であってもそれを達成してくれるもの、それが心だと言っているのです。

心とは、それほどの創造力を持っていることを教えているのが般若心経だと、そのタイトルで表現しているわけです。 

これを従来のほとんどの学者の説を要約すると次のようになります。

「大いなる彼岸に到らせる智恵の完成の真髄の教え」という答えがほとんどの学者の大同小異の解釈です。 

その「智恵の完成」という翻訳がひどい解釈なんですね、これが。

第一に「智慧の完成」という表現自体が呆れるほどおかしな表現です。

「般若」は「すでに完成された完全な仏の智慧」のことですよ、それをこれから完成するかのような「智慧の完成」 という表現、何をいっているのか、お粗末としか言いようがありません。

「般若」はすでに「無分別智の仏智」の意味ですから、これから付け足して完成させるような智恵ではありえません。

あるけれども見えない大自然の 中の叡智 そのものですから、人が付け加えて完成させたり、差し引いたりできる智恵ではありません。

はじめから、空という見えない世界にある「自然法爾(じねんほうに)」に存在している神(仏)の智恵です。

仏智のことです。

ところが、この表現をほとんどの般若心経の解説本は右へならえして「智慧の完成」と丸写しして、平然としておられます。
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般若心経とは何かー一つの結論

長くなりますので、ここで一つの結論を申し上げます。 

1、般若心経の目的はあくまで<度一切苦>にあります。

 ひたすら人々の苦しみを取り除くことにあります。

2、その条件は、<照見五蘊皆空>、「空である 五蘊の心の無限の創造力を知ること」です。

3、そして、その条件を 成就させる方法が「行深般若波羅蜜多」、すなわち「呪」を実行すること。般若心経の真価がここで初めて証明されるのです。

次回はこの般若心経の決め手となる「呪」についての考察をします 。

この呪をネガティブに使う、例えば「人を呪う」ということ が一定の効果があることは世に知られています。

しかしその結果は、「人を呪わば穴二つ」という実体験によって証明はされていますが 、これを逆に使うのが般若心経の「行深般若波羅蜜多」であるということです。 

これをポジティブに使えば、すなわち「是大神呪・是大明呪」としてポジティブに使えばよい、と言う結論にはなるのですが、ことはそう簡単には上手くはいきません。

そこで、はじめて「空」という般若心経が説く世界と自分との関係確立が出来ていないと、せっかくの「彼岸という目的に到らせる」「行深般若波羅蜜多」すなわち「行呪」もなかなか上手くいかない、という事実に直面するからです。

つまり、「行呪」も「<空>と<わたしという自分>とが一つに結ばれていること」が前提条件として、ぜひとも必要不可欠であるのです。

そういう意味では、<空>とは何か、そして、その<空>と<わたしという自分>をつなぐ<心>とは何なのか、をほんとうに理解する必要があるのです。

ここはすこし難しいところですので、次回にします。

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