般若心経は全智全能の”形なき心の実相”を教える人類救済のお経ですーその4-

  

前回は般若心経は「空を説いたそのエッセンスの教え」ではなく「目的(彼岸)に到ることが出来る全知全能の心の教え」 であることを述べました。

その意味では、般若心経は 「空」 を学ぶ経典ではなくて、人々の苦しみを取り除くための現世利益を教えている経典だということが言えます。

  般若心経は「心の教え」というのなら、そもそも心とは一体何なのか、なぜ心はそれほど大事か、から始めて、今回も般若心経の目標とするところが<度一切苦>にあることをさらに明らかにしていきたいと思います。

心には様々な階層 がある

それでは、まずは心というものの階層について、私たちの日常の生活にかかわる 心の狭さから見ていきます。

まず、苦しみという最下層の心があります。

それが私に現れると、そこには八方塞がり、お先真っ暗の世界が広がっています。

具体的には、お金の問題、仕事の問題、人間関係の問題、家庭苦の問題などで心が行き詰まっている世界です。

やがて、そうした暗い長いトンネルの先の方にかすかに光が見えてきます。

その光を頼りに進んで行くとそこに「欲のこころの世界」が広がっています。

一旦、そこでは、ある欲が起こると、いったんはその欲を満たしても、あれも欲しい、これも欲しいと限りがありません。

欲には限りがないのです。

欲の心は止まるということを知らない。

そしてそこは他人と共有することができない世界です。

だから、そこではお互いに奪い合う世界となります。

これが欲の心の世界です。

ところが、こんなところで欲しがったのではみっともない、と言うもう少し広い「見栄」の心が働き出すと、今までの欲が とりあえずは引っ込んでしまいます。

欲を隠そうとします。

それが「見栄」です。 

この見栄の心が出てくると、この世界は競争社会となります。

よく言われる、勝ち組、負け組という次元の世界が展開されます。

そして、以上見てきた、苦しみ・欲・見栄の狭い心の世界では、人生はそれ相応で、結局全体では思うようにはなりません。

そこで、五蘊の皆空を悟り、心の持つ無限の創造力を知ってより広い世界に向かって「度一切苦厄」しなくてはなりません。

その具体的な方法が、行深般若波羅密多」、すなわち「大明呪(だいみんしゅ)」の実行なのです。
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空を悟り「行深般若波羅密多」の「大神呪」を実行すると

しかし、前回、自我のままの、欲と見栄の狭い心のままの「大神呪」の実行では、天という「空の世界」とはつながらないので、その効果はただの「自己暗示」の効果しか得られない、といった意味のことを申し上げました。

だからこそ、般若心経は、「空の理」を懇切丁寧に説いているのです。

このような意味からは、岩波版「般若心経」の校訂者の中村元先生をはじめ多くの先生方が言われるように、般若心経は「空の哲理のエッセンスを説いた経典」だとしたい気持ちはよくわかりますが、しかしながら、般若心経の目的は、あくまで何よりも人々の苦しみを取り除く「度一切苦厄」にあります。

そのための「照見五蘊皆空の理」なのです。

生きとし生けるものも、元々は、全てその中の「空」から生まれています。

現に全ての生き物の中に「いのちとして空」が宿っています。

空即是色だからです。

よくいろんなところで引用される「山川草木国土悉皆成仏」 という考えはこのことを述べているのです。

その中に人間も入っていることは言うまでもありません。

古来の神道ではこれを「万物に神宿る」と言ってきました。

同じことです。

では、その「人間に宿る成仏せる空」とは何のことか、と言いますとこれを表す言葉は古来たくさんありますが、最近流行りの言葉で言えば、それはあなたの中の「ハイヤーセルフ」であり、問題はこの ハイヤーセルフとどうしたら繋がることができるか、ということになります。

神道の世界で言えば、これを妨げている罪・穢れ を祓(はら)うことである、と神社なら答えてくれるかもしれません。

浄土宗及び浄土真宗なら、「南無阿弥陀仏」を唱えることだ、と言われることでしょう。

阿弥陀仏とはアミターバと言うサンスクリット語からきた「無限なるもの」のことですから、それは内なるハイヤーセルフと言い換えても間違いではありません。

それははじめから、生まれる前からも、生きている間も、そして死後も永遠に変わることなくあるところのハイヤーセルフ、これとつながるためにあるのが宗教のすべてと言っても過言ではありません。

現に、ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も我が国の曹洞宗や臨済宗などの禅宗も「神ないし宇宙としての内なるハイヤーセルフ」とつながるために存在しています、ただその方法論がそれぞれに異なるというだけのことです。

ですから、般若心経においても 、 自分自身は「空と言う己に宿るハイヤーセルフ」と繋がっての大神呪の実行、般若心経の言葉で言い換えますと「行深般若波羅蜜多」でなければならないわけです。

繰り返しますがただ単に 、呪 を唱えるだけでは、 空(内なるハイヤーセルフ)とは繋がっていないので、あまり結果が出ない、ということになってしまうのです。

それではただの自己暗示法です。

効果は無いとは言いませんが、かなり限定的です。 

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内なる空とつながる 心に気づくには

ここで、いよいよ内なる空、この空とは、実はこれまでしばしば述べてきましたように、「虚無としても何もない」という意味ではなくて、逆に、あるけれども見えないだけで「何でもある世界」のことです。

だから般若心経では、この空から全てが生まれたことを、「空即是色」と言っているわけです。

その証拠は、空の結果としての目に見える「色の世界」、すなわち、目に見える雄大な大自然を見てみてください。

そこにはあらゆる多種多様な世界が広がっています。

生物だけを取り上げても、人間をはじめとして数えることができないほどの多種多様な存在があります。

空即是色で全てのものが「空という何でもある世界」から生まれたものですから、この目に見える自然界も多種多様な「何でもあるような世界」になっているわけです。

さてその「内なる空」であるハイヤーセルフとどのようにしたら繋がるか、そのための古来からの方法を、宗教という形で受け継いできた人類ですけれども、ここで最も簡単な繋がり方を皆さんにお伝えして開運するための般若心経の極意の話をしております。

それにはまず心というものが、いかにトテツモナク広大で創造力があり、不可思議な存在か、を知らなければなりません。 
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カタチなき心の実相

その文献として、鎌倉時代の臨済宗の開祖にして建仁寺開山、栄西(えいさいまたはようさい)禅師が語る「心とは何か」をご紹介します。

栄西禅師が著したもので「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」という書物があります。

その序文の所に「心についてのすばらしい記述」があります。 

そこに「心がとてつもなく大きな存在である」という記述があるのです。

これを引用します。

「なんと大いなるものであろうか、心とは!

天の高きを極めることは出来ない、けれども心はその天を超える。

大地の深さを測ることなど出来ない、けれども心はその地の下(の深き)をさらに出過する。

太陽と月の光を超えることは出来ない、けれども心は太陽と月の光明をすら超える。

大千沙界(だいせんしゃかい)は窮めることなど出来ない、けれども心は大千沙界の外にも超越する。

それは太虚であろうか、それは元気であろうか。いや、心とは太虚(たいきょ、宇宙の本体の気の根源)を包み、また元気(げんき、万物生成のニュートラル・エネルギーのこと)をも孕(はら)むものである。

天地は我(心)によって覆(おお)われも載(の)せられもされ、太陽と月とは我によって運行し、(春夏秋冬の)四時は我によって変化し、万物は我によって発生するのである。」

この文章によってまずわかることは、かくも宇宙根源の実体にして、やはり「人間に宿る心とは<空そのものである>という悟り」です。

そうでなければ「太陽も月も我によって運行し」とか、 「万物は我によって生ずる」などという表現はありえないからです。 

しかし、これこそが「わたたちの形なき心の実相(真実)」なのです。

普通の意識の流れや記憶などはその心の現象世界です。

ここで言う「我」とは、むろんいわゆる「カタチある肉体の我」のことではありません。

山田無文老師はこの栄西禅師のこの一文に対し、次のような感想を述べておられます。 

心はよく鏡に譬えられますが、鏡は、小さな鏡であっても、富士山も入れば太平洋も入る。なぜ入るか。鏡の中は無だからです。世界中がことごとく自分の心の中へ入ってしまって、狭さを感じない。心は、全宇宙を包容してなお余裕のある大きなものである。わが心はそういう偉大なるものです。

-『和願』山田無文老師 より-

山田老師の「鏡の中は無だからです」ていうところを、私なら「鏡の中は空だからです」と入れると、私の意図するところが伝わるかと思います。

「鏡は無」では、「鏡は本当に何もない」と言う意味に取られてしまいかねず、「鏡は空」とすると 「鏡は、もともと何もないように見えるけれど何でも写す元である空、空即是色」をよく伝える手段となります。

そうです、心は即「空」と置き換えることができる、それほどの「即宇宙大」を意味しているのです。

それに第一に「心にはカタチがない」という事実があります。

カタチがないから、そこには境がなく、ここからここまでと言う区切りがないということです。

ですから、同じ「カタチのない天や宇宙やハイヤーセルフそして空」とつながるのです。

すなわち、この見える宇宙、見える自然をその根底で支えている「見えない宇宙 、見えない自然」という「空」とつながるということです。

親鸞聖人もさすがに素晴らしい究極の悟りのお方で、その「見えない自然」にはっきりと言及されています。

その「見えない自然こそが仏である」とも言っておられます。

「無上仏と申すは、カタチもなくまします。カタチもましませゆえに、自然(じねん)とは申すなり」といい「カタチもましませぬゆえに、自然とはもうすなり」という常識では、にわかには理解できない言葉を残されています。 

常識では「自然とは形がある」からです。

そのことは、心はその見えない宇宙とカタチがないという一点において初めから既につながっていたということを教えています。

これがこれまで長い間本当のところが理解されなかった「宇宙即我」 「即身成仏」の真実です。

今から修行をして悟るとか、或いはこれから仏になる、ということではないということです。

悟りとは「<人は既に見えない自然という仏である真実>を悟るということ」なのです。

この悟りへのキーワードは「心にはカタチがないという事実」です。 

以上のことがわかると、かの夏目漱石が生涯の課題とした「則天去私(そくてんきょし)、天に則り私を去る」ことではなく、歩一歩をすすめて「天というものが<本当の自分である>とわかるということ、従って、これが分かれば「私を去る」などという無駄な努力などする必要もなく、自ずから私を去ることができる」ということです。

次回は「心にはカタチがない」という事実を認めると、どんな世界の展開が予想されるのか、という話に移ります 

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