般若心経は唱えず写経せず実践すると御利益があるお経です

般若心経では、なぜ二度も人々の苦しみを取り除く文言が使われているのでしょうか。

それは般若心経の目的がこの<苦しみを取り除く>というところにあるからです。

それを強調するためです。

またそのためには二つの「創造力のある心」の姿を「五蘊の循環」のところで示し、「般若波羅密多である呪」でその使い方の方法を示さなければならなかったからです。
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般若心経の 「度一切苦厄」の為の二度の「心の創造力」について

繰り返しになりますが、そのための空の解説なのであり、このお経がほとんどの仏教学者や僧侶がお説きになるような「空」の解説のエッセンスだけであるならば、「度一切苦厄」とか「能除一切苦」とかの霊験の話、また苦しみを取り除く菩薩である観世音菩薩を登場させる意味などはどこにもないからです。

そしてこの「二つの苦しみを取り除く文言そして観世音菩薩」のことは「大般若経」の中には一度も全くその記述がない、という事実を申し上げればこのことはよくご理解いただけると思います。 

ここで大事な指摘をしておきます。

「人々の一切の苦しみ取り除く」と般若心経が述べるときのその前には 必ずその次に「心による解決方法」が示されている、ということです。

一つは前回解説しました「照見五蘊皆空」の中の<「五蘊(ごうん)」による心の創造力による解決法>でした。

ここでは般若心経は、 五蘊のうちの「受想行識と言う心のフィルムによる循環」、その繰り返しによってスクリーンである現実という色の世界に写しだされ反映されて、それぞれの人々の人生が形成されるということです。 

前回の「五蘊の循環の図」をもう一度繰り返します。

<カタチのない(空・ス神)>から<カタチのない心>が生まれ、そこから<カタチのある色の世界=五蘊>がうまれたこの宇宙。

そして、この現象世界は次の「五蘊の心の循環」の内容によってその存在の「在り方」が決まるのです。

識→ <カタチのない心>

行     ↓

想←受←<カタチのある色の世界=五蘊>

今回は、もう一つ出てくる「能除一切苦厄」と言う一切の苦しみを解決する方法である「呪」についての解説を します。

ここでも、同じように「能除一切苦厄」の直前にその解決方法である「呪」という言葉が示されています。

いずれにしましても、第一の「度一切苦厄」でも後半の「能除一切苦」においてもその方法の中核となっているのは、あくまでも「心の創造力」であることに変わりはありません .

これも繰り返しになりますが、この<心による>苦しみからの解放だからこそ「心経」と銘打っているのであって、この心の意味を般若心経全体の精髄である、とかエッセンスとかと解釈することがいかに間違っているかということがよくわかります。
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「呪」による「心の創造力」の使い方

くどいようですが、もう一度繰り返します。

<色・受・想・行・識・色>という心の循環というシステムによって現実という色のスクリーンの世界で「受・想・行・識」した心が、そのまま現実というスクリーンの色の世界に反映されて、また新しい現実を創造していく、というこの循環をさせている当体は心だということです。

そしてもう一方の第二の「能除一切苦」である「呪」によって彼岸(さとりあるいは願望成就という目標)へ渡すその到達法においても、やはり「呪」 と呼ばれる心の創造力を使います。

呪とは、「あれこれと考えることをしないで、ただひたすら祈り(心)を込めた言葉を繰り返す」意味ですから、やはりその中心にあるのは心の創造力なのです。

前者の<度一切苦厄>も後者の<能除一切苦>もその中心にあるのはあくまで<心の持つ創造力の駆使>が不可欠な前提なのです。 

だからこそ<摩訶般若波羅蜜多心経>なのです。

心の教えなのです。

空のエッセンスの教えてはないのです。

空を悟ってもそのままでは苦しみがなくなるわけではありません。

空は<心という創造力>を通してのみ色の世界に反映されるからです。

それが五蘊の「受・想・行・識」の循環の心の力なのです。

心は存在の在り方を決める重要な宇宙のファクターだからです。
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中村先生の指摘される「呪」の効用

ここで少し面白い話をいたします。

この「心経」を「真髄ないし精髄すなわちエッセンス」と訳された方々の代表格である中村元先生も、一言「呪」の持つ心の力の効用を引用されてる文章があるのはなかなか興味深いと思います。

「ガーテー ガーテー ハラガ―テー」という一般にマントラと呼ばれている「呪」の文言のところです。 

少し長いですが引用させてもらいます。 

それは中村元・紀野一義訳註「般若心経」(岩波文庫)の註のところに記されています。

「大神呪(だいしんじゅ)ーマハー・マントラの訳。マントラはバラモン出身の修行僧によって仏教の教団に持ち込まれ、ブッダははじめこれを禁じていたが、後に毒蛇・歯痛・腹痛などを治癒させる「呪」の使用を許可した。 」とあるくだりのところです。

これはある意味、とても重大な引用ないし発言でもあるのです。

何故なら、それは「呪のもつとてつもない心の潜在能力」の指摘であるからです。

この般若心経のマントラをについては、従来は、これは重要なマントラだからあまり意味を考えずに唱えればよろしい、と多くの学者や僧侶の方々がよく言っておられますが、本当はそれは誤伝です。

彼らは、それを唱えること自体があたかもご利益があるかのように喧伝してきました。

それが誤伝だと言うのです。

ご自分で実験してみれば分かりますが、そんな効果はありません。

 まあ信じればそれなりのご利益はあるかもしれませんが、それは自己暗示です。

あるとすれば、プラシーボ効果です。

偽薬効果とも言います。

「呪」が意味するのは、単に「往った、往った、往ってしまった」とそのままマントラとして唱えることではなく、ほんとうはその「往った内容、般若心経では<彼岸>という表現になっていますが、この「彼岸」に該当するところは「悟り」だけではなくどんな目標でもよいのです。

だからこそこの「マントラ」は御利益のマントラなのです。

「彼岸」に該当するところに、彼岸の代わりにみなさんの「祈りの内容」を入れて「ガーテー ガーテー ハラガ―テー」を繰り返せばよいのです。

ですからこの応用としては、彼岸の部分は目標なら何でもいいように設定して良いのです。

例えば、健康を目標とするならば「健康になった、健康になった、健康になってしまった」とひたすら心を込めて唱えるということです。

それを誤伝して 、ただそのサンスクリット語のマントラ自体だけを、意味を考えないでただ唱えなさい、それが御利益だ、と誤伝してしまったのです。

これは実に大きな大きな間違いでした。

このことををかつて実証された人に巽直道(たつみなおみち)という先生がおられました。

先生は「呪というのは祈りを達成させる反復の技術である」ということを発見されてから、実に何千人と言う病気の方々や生活苦や家庭苦で深刻に苦しんでおられた人々を「呪」の実践によって次々と救っていかれたのです。

それも単なる風邪であるとか、腹痛であるとか軽い病気ではなくて、大学病院でも長引いてなかなか治らない絶望視された人々の命や難病をそれこそ「般若波羅密多の呪」によって、何千人となく救われた、とお聞きしています。

これこそは、実にこの般若心経の「マントラの心の力が持つ力強い実証」そのものでありました。

観自在菩薩が次々と「度一切苦」されていくそのままの生き証人が今は亡き巽(たつみ)先生でした。

アマゾンで検索されれば、この先生の著書と実績に触れることができます。

この先生を素直にみとめられた有名な仏教学者の方に、石丸梧平(いしまるごへい)という方がおられました。

巽先生の著  病ーこの治りやすきもの

この方は巽先生の数々の実証をご覧になって驚喜され「あなたは現代のキリストです」と激賞され、証言されています。 

ほんとうの「大神呪」の使い方

しかし、巷に出回っている「般若心経の解説本」の全てと言っていいくらいのほとんどが、私の知る限り、ほんとうに無責任に、この「呪」、これは「是大神呪・是大明呪・是無上呪・是無等等呪」であるから、またこれは真言(マントラ)といって如来の真実の言葉であるから、また、これを唱えれば真理と合一することができるから、このマントラの意味は考えずにただ唱えればいい、と言って人々をこのマントラが秘める「心の創造力の使い方」をまさに暗闇に葬ってしまうという大罪を犯しているものばかり、といっても過言ではありません。

万死に値します。

そうではなく、その方法とは「ガーテー ガーテー ハラガ―テー」の呪言のなかに「どんな彼岸(目標)を入れるのかが問題なのです」。

それを入れないで、ただ「往った、往った、往ってしまった(ガーテー ガーテー ハラガ―テー)」と唱えることではなかったのです。

そうではないのです。

そのように仕向けた学者や坊さんの罪はその影響力からいってもその罪は、はなはだ重い、と申せましょう。

誤解も甚だしいとしか言い様がありません。

 

         

 

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