振り込み詐欺はなぜ起こるか  なぜ絶えることがないのか そのワケとは?

振り込め詐欺はなぜ起こるか

振り込め詐欺は 未だに これに対する有効な解決の目処が 立っていません。

なぜなのでしょうか。

しかも いくら騙されないように注意しなさい と言っても いや言えば言うほど かえってなぜか特にお年寄りの方々はお金を振り込んでしまうようです。

あれだけニュースで 何度も何度も取り上げ ほとんどの人がそのニュースを聞いているはずなのに  お金を振り込んでしまうのです。

電話一本であっという間に騙(だま)されてしまうんですね。
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振り込み詐欺はなぜ絶えることがないのか

結論から言いますと 第一には これはこういう電話をしている間には知恵が働かないからです。

もっと正確に言いますと 自分勝手な知恵しか働かなくなってしまう ということなのです。

もともと知恵がないわけではありませんが、その知恵というのは自分の狭い欲や見栄の世界の理屈の範囲でだけ考えている知恵だからです。

自分の努力で考える知恵というのは自分の勝手な判断です。

自分勝手な判断に基づくものだから、 ありのままの事実が見えないのです。

もっと真実を言えば、人はしばしば自分の思うように 世間はできているとだ と見えてしまうのです。

どういうことかと言いますと、自分が欲の塊であれば 他人も世間も欲の塊の集まりのようにみえてしまうのです。

「誰だって欲があるでしょう、誰だってそうでしょう」というわけです。

もう一段 心が広がった世界として、「見栄の世界」というものがあります。

なぜもう一段上かと言いますと、こんな欲 を出していたのでは「みっともない」という見栄の心だからです。

そして見栄とは 比較の世界ですから 競争社会となります。  

そこでは、 自分の周りの人々は皆ライバルに見えてしまうわけです。

「奴には負けたくない」といった世界です。

そして、いずれにしても、つまり欲の世界でも見栄の世界でも 人は 「心が安らぐ」ということはありません。

狭い心だからです。 

安心立命(あんしんりつめい)の世界からはほど遠い世界です。

1億円あったらと思っている人も 実際に1億円を手に入れると さらに次の10億円 10億円を得れば100億円、という風に欲望というものは いくら満たしてもその当初はともかく 慣れてくるとやがて虚しいという感覚が残り、結果、しんからの恒久的な心の満足は得られないものだと言われています。

持ったことがないので断言はできませんが、きっとそのはずです、という人間観はよく理解できます。

そんなふうには人間は出来ていないと思うからです。

「全世界をもうけても 魂を失ったら何になるだろうか」というイエスの言葉はそのことを言っています。 

そういう更に深く高い心が 心の世界にはあるからです。

それと、「振り込め詐欺」では、自分の息子ないし孫とおぼしき声で とんでもない状況を まことしやかに説明されればされるほど とにかく心配になる、不安なこころになる、恐ろしくなる、そのパニックの心が その人の普段なら働くはずの知恵の働きさえも完全にシャットアウトしてしまうからです。

これが電話一本で騙(だま)され やがて とどめを刺される理由のようです
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再び「五蘊(ごうん)の循環」という心による現実創造の法則

次の構成図をみてください。

以前 他のブログでもう話しましたが 次の図は 「人生の目に見える現実の世界は 人間の心の在りようによって 創造されている」そのカラクリを 述べた構成図です。

仏教では これを「三界虚妄 唯是一心作 さんかいこもう ゆいぜいっしんさ」(華厳経)と言います。

この世界の在り方 在り様は 私たち人間の心の在り様で決まるものだ という意味です。

そのことを図式化すると 以下のようになります。 

この図は 仏教で言う五つのかたまりを意味する五薀(ごうん)が循環する図です。 

 この左の図は何を表しているかと言いますと、五蘊というのは色・受・想・行のことですが  まずスタートとして人は、色という目に見える現象世界 を観察し  これを目で見ます。

五蘊の循環図

それが「受」です。

その目から入ってきた情報のことを人間は考えます。

それが 「想」です。

その「想」で、いろんな思いを、その想の内容にもよりますが、何度でもその想い の内容によっては 何度でも思い返す のが普通だと思います。

それが次の 「行」です。

具体的な例で話しを進めてみましょう。 

例えば、ある人が  病気にかかったことを  お医者さんから告げられたとします

これが 「受」です。  

するとどうでしょう、大抵の場、この病気はさほど心配しなくていいのか、それとも 実 は重病なのに医者や家族は隠しているのではないのか、とか  あれこれといろんな心配をし、そしてその「想いをとにかく繰り返します」。

それが「想」と「行」です。

そこで こういう状況の場合、 快方に向かう可能性の「想い」と、そうでない「想い」とが考えられますが、大抵の方はとかく「悪い方に」識別してしまう傾向があるものです。

悪い方を考えてしまう習性のようなものが 普通の場合、あるということです。

これが「識」です。

もし  この悪い方に識別して これを何度も繰り返しますと、それはやがて、矢印の方向にありますように、「色と言う現象世界」に 心を通しての創造が進行し、いよいよ深刻な病気なっていくというわけですが、以上の経路をたどって  病気は固定化され 一層悪い方向に進行していきます。

しかし、もし「識」の段階で、何かの考えがあって「治る」 可能性を強く確信した場合、この場合は 快方に向かうということでもあるわけです。

宗教団体などで 心の大きな変化があって 病気が奇跡的に治ってしまうことがしばしば起こるのは その為です。

心には そういう「想念を創造する力」が宿っている、ということを教えているのが、ここの般若心経の中の「五蘊の循環という心の創造システム」なのです。

般若心経では、さらに一歩を進めて この五蘊のシステムが「空」と言う 「カタチのない彼岸の世界」から生じていることを「五蘊皆空」と悟ることによって 「度一切苦厄」 すなわち 一切の苦しみや災いを解決することができるのだ ということを記されています。 

今回はこの点には触れませんが 心が欲や見栄のレベルに留まっていると 人はどうしてもネガティブマインドに支配されやすくなる事実があるということです。

ネガティブマインドと欲や見栄の狭い心には密接な関係があります。

欲や見栄の狭い心には ネガティブマインドが生じやすい ということです。

そして そのネガティブマインドに支配されればされているほど すでに述べました色受想行識の 「五蘊の循環という心の創造システム」によって その人の人生には多くの事故や災難や病気などの望ましくない人生の艱難(かんなん、つらいこと)が押し寄せてくる可能性が高いということです。 

このような点から言っても 狭い心の世界から 少しでも広い心の世界への飛躍が 是非とも 必要であることは 言うまでもありません。

ではこの問題の解決はどうしたらいいのか。

それは そうした人間の欲の世界や見栄の世界の心の世界をなくするとか あるいは 捨てると言うことではありません。

第一に 見栄や欲の心は本来カタチがないものですから、捨てるに捨てられない、なくしてしまうということは まずできない相談です。

ではどうしたらいいのか。

実は そういう欲やみえの心を否定するとか 捨てることではなくて もっと広い大きな心を 認めてこれを養い育てるということです。
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 志が秘める広く強いエネルギーのこころ

ここでクローズアップされてくるのが 志というこころの世界です。

志は夢と似ていますが、夢を持つことと志は大きな違いがあります。

志も夢も同じように お考えの方は多いかとは思いますが、ここでは夢は個人的な願望、理想的な世界のこと、例えば芸能人として成功することとか、政治家として成功するとか、実業界で成功するとか、フェラーリの乗ることとか コートダジュールに別荘を持つとか そういった個人的な願望の実現を夢としてみます。

あくまで個人的な願望の成就ですから それが実現したからといって 人はその人のために協力するとか 援助するとかっていうことは 両親や友人などは例外として まず しないのが普通です。

フェラーリ

一方 世界平和の実現のために 真剣に何かをするとか あるいは できるだけ大勢の人のためになる商品を開発するとか、いわゆる 根幹に世のため人のためになる利他的な広い心を基本とする志を しっかりと堅持している人々に対しては協力したり援助したくなるものです。 

そして 人は 真剣にそうした志を第一とする考えで仕事をする時 その広い心はその人の中に潜んでいる個人的な欲や見栄を包み込み 摂取してしまうということです。

そんな生き方をすると 逆説的ですが その欲 やみ見栄の心は包み込まれて 表に出てこなくなってしまうのです。

商売でも そういう志が根幹にある商売は 必ず繁栄に向かう可能性が高いものです。

それは 多くの人々の賛同を得るからです。

その意気に感じる人々が たくさん出てくるからです。 

そしてそのような志によって生まれた商品は 良いものに決まっているからです

 「 義利合一(ぎりごういつ)」という考え方

渋沢栄一の「 義利合一(ぎりごういつ)」という考え方はそれです。 

ここで言う「義」というのは 正義とか大義という意味で できるだけ大勢の世のため人のためになるという意味が含まれています。

ですから 商売であれば できるだけ大勢の人々に役に立つ あるいは益する仕事とか商品などを生み出すということが 商売の最高の生き方になるのだということ、そして 結局 それが儲けにつながるのだと言う考え それが「義利合一」という考え方です。

渋沢栄一

 志を背景とする 仕事や商売、それが結局は 売る側と買う側とがともにウィンウィンの関係になるということでもあります。

そして 志を持った広い心には  必ず広く大きな知恵が自然と湧いてくるのですが、個人的な欲や見栄などの狭い心からは  狭い小さな智恵しか出てこない  という事実があります。 

これもまた 志と夢との違い と言えるものです。

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