運命好転の極意ー左・右・左の祓いに秘められた極意ー

神社神道のお祓いと「引き受け気功」の関係

神社へ行って お祓いを受けたことがある という方がおられるかと思いますが その時 神主さんがお祓いの幣(ぬさ)を持って 神主さんの方から見て 左・右・左という所作をして お祓いをしてくれます。

このお祓いの意味なのですが 漠然と 人の体についた罪穢れのようなものを この祓いの儀式で お祓いをしてくれている と多くの人は思っていると思います。

神主さんも それ以上の意味とか理由というものは話してくれませんので よく分からない所が あるかと思います。

今回は この左・右・左となぜ三つの動作となるのか ということから この動作に秘められた深い意味 を探っていきます。

この動作とよく似た動作をして「引き受け気功」を指導されている 気功師の 藤谷康充(ふじたにやすみつ) 先生という方がおられます。

左手で  病気なら病気を引き受けて さらに右手で[天の光」とか言うものを これも引き受けて  両手をあわせて無限大の印()にして それを左右にあわせて しばらく行ってから 右手を前に左手を後ろに手を上下にこすり合わせ るこ

藤谷康充気功師

とを繰り返す、そういう治療を各自が行い  それで終わりなのですが これが結構な効果を収める という不思議な治療法を行っています。

そして この左・右・左という形は 神社神道のお祓いからヒントを頂いたのだ と藤谷先生は述べておられます。

これを 少し長い間 私が観察してきて思い至ったこと 、ここに含まれている宗教的 哲学的な意味を 今回は探ってみます。 
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「引き寄せ気功」が意味する世界とは何なのか

どうして そんな心と体の動きが 例えば 病気を癒したりすることができるのか その不思議な世界を 長い間 考えた結論、とは言いましても 暫定的仮説ですが 考えてみたいと思います。

しかし この「引き受け気功」を実践されている方も 実際の効果がある人と  効果のない人 とがどうしても出てくるのだそうです。

その違いはどこから来るのか といったことも 合わせて考えてみたいのです。

そこには、重要なこの世界の秘密が隠されている という思いがあります。

まず ここからわかること、それは 気功と言うくらいですから 人の思いというものと この宇宙に遍満しているであろう 気という世界とが 何らかの関係を持っている ということを前提としないと この話はよく理解できません。

しかも その気というものが 物質世界の粒子や波動のようなものとのみ見る限り そういう唯物論的理解では その効果はどうやら低い  ということ でもあるようです。

どういうこと か?

これから 少しずつ 解明していきたいと思います。
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「引き受け気功」の世界の奥にある秘密の真理

それでは その引き受け気功というものの世界を  まずは見てみましょう。

1 今 目の前にある現象が 仮に望ましくない 厄介なものであったとしても まずは それは この世は季節が変わるように必ず変わるものだから 「今はそれで良いのだ」 と左手で 一旦 とにかく 心で素直に引き受けるのです。

2 その際に 「この問題を何とかしよう」 と力んで 思うのではなく そのまま 右手を引き寄せ天に任せる ということがとても大事です。

その時 なんとか自分に都合のいいように 天を働かせよう と思うと これは あくまで例えですが 天はそっぽを向いてしまいます。

ほとんどの人が ここで 失敗をします。

そんな風に 自己本位に「引き受け」をすると  うまくいくものも うまくいかなくなってしまう「落とし穴」がそこにあります。

そこで そのようにして あなたの 自我の心が 邪魔をしてしまうからです。

狭き門とは そういうことです。

なぜなら 天は ありとあらゆる全体との調和のなかで その動きをしているわけですから 自我の思うようにしようとすると それが邪魔をして 天の作用がシャットアウトされてしまうのです。 

自我の人の心の思いにも 力があるからです。

それを 乾坤一擲(けんこんいってき 運命をかけてのるかそるかの勝負にでること) エィヤッと任せる。

宇宙全体の天の動きから動いてくれている 全知全能の天に 任せるのです

天は 本来 その人の周囲をも全て、全てですよ、わかっていて(全智) 全体を 巨視的に見ることができるし 全体との調和の元に その人を導こうとしている(全能)からです。

天に則(のっと)り 私(わたくし)を出さない、「則天去私(そくてんきょし)」と言う夏目漱石の標語がありましたが まさに その通りの動きをして 「任せる」のです。 

夏目漱石

3 すなわち 天は  私だけではなく 周りの全てとも調和して 治るように働いてくれている のです。

せっかく 天が働いてくれているのだから 全て お任せ委(ゆだ)ねるのです。

無限大()の手の動きは 自分の個人の意識や意志を超えて「天にお任せ」する という

動きを表しています。

目先だけの結果ではなく 私の将来を見据えての 生きる基礎に基づいて 動いてくれるのです。 

これが「信仰」というものの要諦(ようてい、要となるもの)です。

人智では これ以上は決してわからず 入り込めない「神の領域」だからです。

そんなことは、小さなエゴの私にはわからないのですから あなたの出る幕ではない のです。

だから「天にお任せする」のです。

ところで では 一体「天」とは何なのか これを説明します。

赤ん坊の時から 小学校・中学校・高校そして大人へと変化を続けた「私」というものがいます。

カタチとしては 変化して 赤ん坊の時の私と 今の私はまるで違います。

だからといって 私は他人になったというわけではありません。

一方で 一貫した私 というものが存在しています。

赤ん坊の時から 今でも変わらない「わたし」 というものがあります。

それをひらがなの 「わたし」 とします。

その一貫して変わることのない「わたし」と 「いのち」と「こころ」 は 実は同じものなのです。

私と 命と 心とは もうひとつの「わたし」と「いのち」と「こころ」 のダブルスタンダードとしてある ということです。

ひらがなの「わたし」と「いのち」と「こころ」に共通していることは カタチがないということです。 

ひらがなの「わたし」が漢字の「私」の実相であり ひらがなの「いのち」が漢字の「生命」の実相であり ひらがなの「こころ」が漢字の「心」の実相 というダブルスタンダードで 全ては出来ている ということです。

このダブルスタンダードを 古来 「霊と肉」と表現してきていたのです。

このダブルスタンダードは 般若心経で言えば 「空と色」ということになります。

このようにいえば 分かりやすいのではないか と思います。

そして 「カタチのない天」とは、実は あなたの中のひらがなの「わたし」であり 「こころ」であり 「いのち」 の三位一体の世界のこと なのです。

それは 天地いっぱいに広がっている「いのち」であり「こころ」であり 本当の「わたし」です。

そこが あなたの中の 「神の国」(kingdom of heaven)です。

ですから 救いは あなたの中で完結する ということです。

だから 天の彼方におられる神に 救いを求めて 泣きついたり 祈る必要はない のです。

そういうわけで、左手で 目に見える現象世界の悪しき状態を引き受けて 右手で あなたの中の神の国の「いのち」によって 癒していただくべく、それを お任せするその行為 それが 本当の「引き受け気功」 ということになります。

ところが 天というものを、「たこ たこ あがれ 天まで上がれ」の物理的で 空間的な 空の上の「天」を思い 「引き受け気功」をやるから効果が出てこない ということになるわけです。

その「ほんとうの天」とは 目に見える天ではなく、あなたの中で 次元を異にする「目に見えない高次元(絶対界 )の天」です。

そのためには この世界はダブルスタンダードでできている ということを認識している必要があります。

それが  生きとし生けるものの 万物の真相 だからです。 

すべては 目に見えない絶対界と 目に見える現象世界である相対 界で できているということです。

(あるけれども見えない世界)  VS  (目に見える世界)

   (実在界)      と      (現象世界)

     霊          と      肉 

    

     空          と      色

    わたし         と      私

    いのち         と      生命(肉体)

     天           と      地

この図式からも分かりますように ここで言う 天というのは  目に見えない霊的世界の天であって 肉眼で見える天体の天ではないのです。

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「<絶対界の天>にすべてをゆだねる」という一大ポイント

ほとんどの人は 普通 欲と見栄の世界で 生きています。

それを肉主霊従(にくしゅれいじゅう)と言い 肉体を持ってこの世に生まれてきた者の宿命 と言って良いでしょう。

自観法(じかんほう)のところでも申し上げましたように、すべて肉に属する自我が 主導権を握っているからです。 

私が「わたし」に  生命が「いのち」という天(霊)の世界に  生まれ変わらなければ「霊主肉従」の 神の国に入ることはできない  のです。

これが イエス・キリストの 「人新たに生まれ変わらずば  神の国を見ること能わず」  という言葉のほんとうの意味です。

「神の国」 とは 空の鳥や野の花の生活のように  自然法爾(じねんほうに)に  すべてが うまく回っている世界、すべてがうまくいっている世界 のこと です。

イエス

それを行なっているのは 天の意志です。

これを、親鸞聖人は 「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」と言いました。

「弥陀」とは、いいかえれば 「阿弥陀仏(あみだぶつ)」のことで  しかも それは在る一定のカタチのある仏のこと  ではありません。

アミターバ 無限なるもの 霊であり 空であり いのちである天のことです。

「本願(ほんがん)」とは「こころ」のことですから、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」とは、「天の意志」のことなのです。

人は この天の意志が働くように 自分を整えるということ すなわち「任せる 委ねる」心の在り方が そういう意味で 非常に きわめて 重要だ ということになります。

繰り返します 「天に委(ゆだ)ねる 天に任(まか)せる」という心の在り方が 最重要なのです 。

これで全てが決まる、といってもいいくらい 重要な一大ポイントです。 

そのことを 孔子も釈迦もイエス・キリストも 全ての聖人が  共通して述べているポイントです。

ソクラテスの 「汝自身を知れ」 と言う遺言の 「汝自身」とは、あなたの中の「天」であり「ほんとうのあなた」のことです。

最後に、 自分が最近出したkindle本 第一作と第二作です。

ご笑覧 ご購読頂ければ 有り難いです。

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