永遠の「あなた」と「いのち」は「0(ゼロ)人称」の中にある

「0(ゼロ)人称のわたし」

このタイトルの「0(ゼロ)人称のわたし」とは 

一体 何のことか といぶかしく思われる

かと思います

一般に 人称は 「私」という一人称 

「あなた」という二人称 

「彼ないし彼女あるいは彼ら」というのを三人称 

と言っています。

それはわかるが しかし 一体 

「0人称のわたし」とは何のことか

と思われると思います。  

実は この言葉は かつて一世を風靡した

「静座法」の 創始者 岡田虎二郎

と言う方が 自分自身というものについて 

悟られた世界からきているの言葉なのです。

今回はこの「0人称のわたし」

ということを考えてみます。

岡田虎二郎
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ほんとうの私とは

前回述べたことをここに引用します。

<赤ん坊の時から 

小学校・中学校・高校そして

大人へと変化を続けた「私」

というものがいます。

カタチとしては 変化して

赤ん坊の時の私と 

今の私はまるで違います。

だからといって 

私は他人になった

というわけではありません。

一方で 一貫した私 

というものが存在しています。

赤ん坊の時から 

今でも変わらない「わたし」

というものがあります。

それをひらがなの 「わたし」 とします。

その一貫して変わることのない「わたし」と 

「いのち」と「こころ」 は 

実は同じものなのです。

私と 命と 心とは 

もうひとつの「わたし」と「いのち」と「こころ」 の

ダブルスタンダードとして存在している ということです。

その<赤ん坊の時から 今でも変わらない「わたし」>が

岡田先生の言う「0人称のわたし」というわけです。

二つの私 すなわち「漢字の私」と「ひらがなのわたし」

この違いはどこにあるか

ということになりますが

「漢字の私」というのは

皆さんが 普段自覚している私 です。

目に見える肉体を持った時に 自覚している私です。

従ってそれは 生まれやがて死にます。

なぜなら、それは時間の中で生きている

時間内の存在だからです。

時間内の存在はすべて

変化して同じところに留まる

ということはありません 。

時間内にある肉体は常に変化し

その心も常に変化しています 。

そういう現象世界にある存在は

全て時間内の存在です。 

肉体も去年あった肉体とは

微妙に変化しています。

そして いつかその肉体存在は

幻であったかと思えるほど 

はかなく消えていきます。

心も 常に川の流れのように変化して

止まるということがありません。

方丈記(ほうじょうき)が言うように

行く川の水は 絶えずして

しかも もとの水にあらず  です。

このように  諸行無常の世界です。

時間内にあるものは 常に諸行無常なのです。

だから 変化するものは 実体がないのです。

実体がないから やがて消えるのです。

初めから無かったかのように。
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永遠のあなたは「0人称」の中にある

ところが 既に申し上げましたように 

赤ん坊の時から 

今でも変わらない「わたし」

というものがあります。

その「わたし」は  全く変化しないという意味で 

時間内の存在ではない

ということがわかります。

時間の中にはいない「わたし」なのです。

実はそれが「本当のあなたであり 本当のわたし」なのです。

それこそが まさしく0人称のわたし>なのです。

それは時間内にはありませんので

「永遠の存在」なのです。

だから本当のあなたは永遠に

死ぬということはないのです。 

く0人称>とは 般若心経で言えば

空の世界の存在 ということになります。

したがって  0人称の存在 である

あなたが「不生不滅(ふしょうふめつ)」

「不垢不浄(ふくふじょう)」「不増不減(ふぞうふげん)」

の存在だということです。

これはとんでもない福音(ふくいん よい知らせ)

ではないですか。

般若心経に対する 新しい視点がここにあります。

実は 今申し上げたことが般若心経が

告げようとしていることです。 

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般若心経における「空」とは

般若心経では ほんとうは 一方で空=無い という意味で 

もう一方では空=何でもある世界と

というように相反する二つの意味

を使い分けています。

ですから「五蘊皆空(ごうんかいくう )」とは

色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の五蘊の世界が 空と言う

「何でもある世界」から生まれたという意味 と

五蘊は  常に変化して実体がなく、本来無いものなので

色受想行識は 実体のないもの 虚しい幻

と言うように「五蘊皆空」と言う言葉に対し

二つの使い方をしているのです。

これが般若心経が難しかった

大きなり理由の一つです。

お釈迦様がなぜ「自灯明」ということを

教えの根幹に置いたのか と言いますと

私たちに 本来あるところの「0人称のわたし」

というものがあるからです。

自分自身を頼りとする根拠がその

「0人称のわたし」の中にあるからです。

ヨガの世界においても、静座の世界においても 

座禅においても 瞑想においても

その根本の狙いはどこにあるかと言えば

自分の一番奥底の根本になっている

「0人称」の自分をつかむということが

最高で最大の目的であるからなのです 。

禅宗で「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)の本来の面目」

を悟れ ということも  この「0人称のさとり」

のことを言っているのです。

すでにこの「0人称のさとり」の中にあった

  イエス・キリストは

「わたしは アブラハム(ユダヤ民族の先祖)の生まれる前から 存在していた」

と言えたのも イエス自身がすでに

その「0人称のさとり」の中に生きていたからです。

道元禅師も「正法眼蔵」 の

現成公案の巻の中の「身心脱落のところで

「仏道をならうとは

自己をならうなり。

自己をならうというは

自己を忘るるなり。自己を忘るるとは

万法に証せらるるなり。

道元禅師

万法に証せらるるというは

自己の心身及び他己の心身を

脱落せしむるなり」

とあるように、道元禅師も

かの「0人称」の中に入る修行こそが

禅の眼目であることを述べておられるのです。

ある意味、この世に生まれてきた最高の目標は

その「0人称」の中に入ることです。

これこそが「ほんとうの解脱」です。

自分が最近出したkindle本 第一作と第二作をご紹介させていただきます。
ご笑覧頂ければ 有り難いです。

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