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前回は、「嫌なことを忘れる方法」としての自観法の紹介をさせていただきました。
それは、今現に考え思っていることに対して、まさにその意識の流れそのものを、もう一つの自分で、一切の批判や判断を加えずにそのまま、良い思いであれ、悪い思いであれ思い浮かんでくるすべての意識をただ眺めることでした。
この、「もう一つの自分で、一切の批判や判断を加えずにそのまま、良い思いであれ、悪い思いであれ思い浮かんでくるすべての意識をただ眺める」こと、たったそれだけなのですが、この瞑想法が実に画期的なことをわたしたちにもたらします。
この「一切の批判や判断を加えずに」ということが、とっても重要なんです。
そこがまさにこの手法のミソなんです。
どういうことか。
「悪いことに対しても一切の審判や批判や判断を加えないで受け入れる存在」って、どうゆう存在か、皆さん考えてみてください。
それってどういう存在ですか?
何をまず思いつきますか。
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わたしは、まず、我々の中に宿る「いのち(生命)」という存在を考えます。
私たちが自分のミスで大怪我をしても、又私たちの勝手な積年の怒りや恨みの累積で病気なっても、いのちは、どんな人に対しても、善悪や正邪などの一切の批判や判断をすることもなく、ひたすらに治そう、治そうとしますよね。
こんな存在を他に想像できますか。
そう、それは、想像できるとすれば、或いはいるとすれば、神仏ですね。
神とは、正しい人も正しくない人も、敵さえも愛する愛であり、仏とは「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう、慈(いつく)しみの目でわれわれを一切のジャッジもせずに見守る)」の存在です。
ですから、「一切の批判や判断を加えずに」あなたが、そういう神仏の眼で見るようにして自観法をしていくと、やがて、あなたはその内なる神仏とつながり、神の国とつながっていきます。
そこにつながれば、あなた方が人生で必要とするものは、求めずして与えられるのだ、とかつてナザレのイエスは断言しました。空の鳥や野のユリを、いかにして内なる神であるいのちが養い育むのかを例にとりながら、熱心に説きました。
その内なる神である命をイエスは「天の父」と呼んでいました。
とにかく、自観法を実践していくと、やがて(1~2か月後頃)までには、何らかのいい兆候が心身に起こるようになってくると思います。
すると、これは、単に自分を二つに分けただけの話ではないな、と思えるようになると思います。
今回はここまでです。