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肉より生まれたものは肉であり霊により生まれたものは霊である
前回、悟り解脱をした人とは、霊によりて生まれ変わった人のことだ、と申し上げました。
イエス・キリストの言葉にあるように、「肉より生まれたものは肉であり、霊により生まれたものは霊である」なのです。
ところで、この文言のある聖書の中の記述は、とても尋常では理解できない箇所の一つです。
Googleにのっているキリスト教の牧師さんのどの解説を見ても、本当にはわかっておられないな、と、わたしは、勝手にですが、思っています。
じゃあ、お前はわかっているのか、という反論が聞こえてきます。
なので私なりの解説をしてみます。
まず、その有名な個所を聖書から引用します。
パリサイ人(びと)のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
イエスは答えられた。「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
ヨハネによる福音書第3章より
みなさんは、この文章が何を言っているのかわかりますか?
まず、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの言葉はここに出てくるニコデモと一緒で、わかりませんね。
ニコデモは、年老いた今、母のおなかに入って生まれることはできません、などと幼稚な反論をしています。
ただヒントはあります。
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肉から生れる者は肉であるという表現です。これは、何度か言いましたように、ほとんどの人が生きている「肉主霊従」の生活です。
「わたしは肉体である、この顔がわたしである、わたしは人間である、わたしは個人である」と思って生きていますよね、この自覚、これが普通ですが、それがイエスの言う「肉より生れし者」です。
一方「自分の本体は肉体ではなく、霊である、普遍的な一つの神の命の分霊で、その意味で無限であり、絶対であり、仏教的に言えば既に成れる仏であり、全ての全てであり、<わたしはあなた、あなたはわたしという心境>、それこそがわが真我(ほんとうの自分)だ」という自覚に達したもの、それがイエスの言う「霊より生れし者」という意味です。
違いはただ自覚の違いです。
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菩薩が出た家は滅びる?!
後者の「霊より生れし者」とは、何度も申し上げている、「霊主肉従」の人のことです。
めったにはいません。
いない、のも道理で、「霊主肉従」の人は「肉主霊従」の世の中に生まれてくる必要がないからです。
なので、仏陀も「私は再びこの世に生まれてくることはない」といわれたわけです。
これを最後身といいます。
イエスも「わが国はこの世ではない」と言っています。
また、密かに言い伝えられている言い伝えがあります。
「菩薩が出た家は滅びる」と。
これはあまり知られてはいないかもしれません。
この場合の菩薩とは、悟り解脱した人のことを言い、基本的に仏陀と同じ覚者で、「霊によりて生まれ変わったもの」の「霊主肉従」の人のことですから、この世に生きる理由も必要もな人です。
従って、その家は続く必要がないわけです。
「一人出家(菩薩に成れる者)すれば、九族(きゅうぞく。自分を中心として先祖・子孫の各四代)は天に生まれる」とはこの世界のことを言っています。
この意味では「この世に生まれて来ないことこそ、彼岸(ひがん)に至ったものとして、めでたい事」となります。
一方、肉主霊従の此岸(しがん)にあるということは、生老病死、四苦八苦の世界にあって苦しんでいるということです。
一家繁栄、子孫繁栄を願う「肉主霊従」の価値観とは根本的に次元を異にしています。
ですから、この世に現れた「霊主肉従」の人とは、人々を助けるために、わざわざ、生まれてきておられる、ということだと思います。
そういうわけでこの世の栄耀栄華(えいようえいが)を願う「肉主霊従」の方からみれば、「霊主肉従」の人は必ずしも「いい生活」をして生涯を終えてるようには見えないと思います。
でも、如意自在な生活をしておられるのは間違いないと思います。
すなわち、「空の鳥」や「野のユリ」のように、All things shall be yours,without asking.(イエスの言葉)の世界の住人のはずですから。
歴史上、自分の知る限りでは、こうした「霊主肉従」の人とは、、有名な人では、釈尊、イエス・キリスト、老子、ソクラテス、ピタゴラス、わが国では、空海、親鸞、黒住宗忠あたりでしょうか。